国立コロニー開設至る道のり遠藤 浩はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・本稿の目的と趣旨「コロニー」概念の多様性一つの地域社会ともいうべき総合施設第1章 コロニー前史・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・戦前における知的障害のある人たちの保護児童福祉法の制定と「精神薄弱児施設」の創設年齢超過者と重度・重複障害児の問題「精神薄弱者福祉法」の制定第2章 重症心身障害のある人たちの施設・・・・・・・制度化「全国重症心身障害児(者)を守る会」の設立国立療養所委託病床と重症心身障害児施設「動く重症児」問題の顕在化010515第3章 国立コロニーの開設・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・コロニー懇談会国立コロニーの建設開設初期における国立コロニーの運営重症心身障害児(者)対策と国立コロニー地方コロニーの建設第4章 コロニー批判とコロニー政策の転換・・・・コロニー批判コロニー政策の転換あとがき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・文献・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・21323436はじめに昭和46197141に開設された「国立コロニーのぞみの園(以下、「国立コロニー」を設置運営していた特殊法人心身障害者福祉協会は、平成152003101日に廃止され、施設利用者、職員、施設設備、その他一切の権利義務同日に設立された独立行政法人国立重度知的障害者総合施設のぞみの園(以下、「のぞみの園」に引き継がれた。のぞみの園は、独立行政法人通則法、独立行政法人国立重度知的障害者総合施設のぞみの園法、知的障害者福祉法、社会福祉法などの関係法令に基づき、障害のある人たちの自立を総合的に支援することを目的として、重い障害があっても普通の暮らしができるように総合的に支援する施設を運営するとともに、障害福祉行政の推進に寄与するための調査研究を実施し、更にその成果を全国の関係施設・事業所にきんてん均霑するため人材の養成研修事業にも取り組むこととされた。すなわち、全国から重い障害のある人たちを受け入れて終生保護する福祉施設を設置運営する法人から、現下の障害福祉行政の政策課題に即して、施設におけるモデル的支援の実践、調査研究、人材の養成研修という三つの事業を一体的に推進する法人へと生まれ変わったのである 本稿の目的と主旨平成25201310のぞみの園設立10周年を迎えたが、この間障害者福祉施策は、障害者概念の発達、当事者意識の高まり、共生社会の理念の普及などを背景に、障害者基本法の改正、発達障害者支援法の制定、障害者自立支援法の制定と障害者総合支援法への改正などにより大きく進展した。のぞみの園は、このような障害者福祉施策の進展に対応し、入所利用者の地域移行に重点的に取り組むとともに、行動障害の著しい人、高齢となった知的障害者、精神科病院に社会的入院している知的障害者などを対象とするモデル的な支援、新たな政策課題として浮かび上がった矯正施設を退所した知的障害者の地域定着に向けたモデル的な支援とこれに関連した調査・研究などにも取り組み、これらの成果の全国への発信にも力を注いできた。また、心身に重い障害がある人や発達障害のある人の地域生活を支えるための事業本格的に着手した。のぞみの園が障害福祉施策の課題に即して広く障害のある人たちのニーズに対応した多様な事業を展開していくにつれ、自ずと国立コロニー時代の面影は薄れ、昭和30年代から40年代にかけて国立コロニーの建設を待ち望み、その実現に全身全霊をなげうって取り組んだ人たちの思い、また、国立コロニーに居場所を求めざるを得なかった人たちが甘んじた苦境は、過去の出来事として風化しつつある本稿は、10周年という節目の時期に、知的障害のある人たちを中心に据えて障害者福祉政策の流れ顧みて、その流れの中からのぞみの園の前身となった国立コロニーについて構想提唱から開設に至までの経緯を改めて検証し、その記録を後世に伝えること併せて、我が国において重い障害のある人たちのための福祉施設として国立コロニーが出現した歴史的必然性を探ること目的とするまた、テーマを論じていく手がかり、あるいは、根拠として関係法令、行政資料、先行研究、国立コロニー田中資料センター(1982「わが国精神薄弱施設体系の形成過程」などの参考文献を参照したが開設の経緯を辿ると、重い障害のある人たち保護と支援に関わった家族をはじめとする関係者が粘り強く、かつ、切実に社会に訴えかけたことが国立コロニー実現の原動力となっという事実に突き当たことから、関係団体の機関誌、すなわち、「愛護」、「手をつなぐ親たち」、「両親の集い」、「精神薄弱者問題白書」などの記述重視した。なお、「精神薄弱」は、関連法令の改正により平成1119994月から「知的障害」に改められたが、同月前の状況、事項、出来事等を当時の表現で記述する場合は、「精神薄弱」が含まれる用語を「 」付で使用した。本稿のほとんどは、明治、大正、昭和の時代の記述であるので、「精神薄弱者」、「精神薄弱児施設」、「精神薄弱者福祉法」、「精神薄弱者援護施設」などの表現が随所に出てくることをあらかじめ断っておく。また、現在不適切とされる「白痴」、「収容」などの用語が当時の公文書や文献などで使用され、本稿でそれに関する記述をする場合は「 」付で使用した。2 「コロニー」概念の多様性本論に入る前に、我が国の障害者福祉政策において「コロニー」とはどのような概念として、あるいは、どのような思いを託して論じられたかをておきたい。障害者福祉政策の歴史の中で「コロニー」が語られることがたびたびあったが、「コロニー」なる用語は、語る人によって「心身障害者の村」、「生活共同体」、「終生保護施設」、「庇護授産所」、「総合施設」など様々なイメージや目的・機能を有する施設を表す用語とし使用されていた。昭和4019659月に厚生大臣の私的諮問機関として設置された「心身障害者の村(コロニー懇談会(以下「コロニー懇談会の第1回会合でコロニーという言葉は一般の人はもちろんその委員でさえもイメージはひどく違うようなので、もっと先入観のない新しい名称を使う方がよいのではないかが一つの論点になったこと当然であった「両親の集い」1965, no.114: 5; 「手をつなぐ親たち」1965, no.116: 19また、糸賀一雄がそうであったように、障害のある人たちをどのように保護し、支援していくかという理念や施策の方向性の変遷伴い、その提唱する「コロニー」構想も変容していくことはむしろ自然であった1そもそも戦前の滝乃川学園を創設した石井亮一や桃花塾を創設した岩崎佐一も、知的障害のある人たちが広大な農園などで自給自足的な生活、かつ、地域と共存共栄できるような生活を送れるようなコロニーの構想を持っていた(「国立コロニーのぞみの園十年誌」1981: 1戦後は、結核回復者等の就労の場としての授産施設をコロニーと称することもあったが、障害者福祉政策の中で初めて明確にコロニーに言及したのは、昭和281953119日の事務次官会議で決定された「精神薄弱児対策基本要綱」であった。すなわち、その「基本的対策」の一つとして「精神薄弱児専門の授産及びコロニー等を設置すること」が掲げられ、「精神薄弱児のうちには、職業能力を持っていても、一般人に伍すると、それを十分に発揮できない者が多いことから、相当年齢以上のかかる者のために授産およびコロニー等を設置してこれを収容するとともに、これらの生産品の市場確保について適切な援助をする。」との説明が付されここでコロニーとは、教育期間を終えた知的障害のある人たちを主たる対象とし、長期間の入所も想定して、作業指導中心に運営される入所施設をイメージしていたと考えられる。このようなコロニー概念は、3-1言及するが、昭和30年代末から40年代にかけて政策課題としてコロニー建設がそじょう俎上載った際の説明にも引き継がれ次に、糸賀一雄はじめ障害者福祉に献身的に取り組んでいた関係者がコロニー概念をどのように捉えていたか、あるいは、コロニーにどのような思いを託していたを伺い知るために、執筆記事の幾つかを紹介する。(1)糸賀一雄 「コロニーといっても、その人たちが社会に不適応だからといって単に隔離するのではなくて、社会のはたらきのひとつとしてほかのはたらきと有機的なつながりをもっているものであってほしいわけである。その意味では大きなリハビリテーション(社会復帰)の体系のなかに位置づけられるべきものと思う。むしろハビリテーション(人間としての形成)といった方がよい。したがって、コロニーが終着駅であったり、墓場であったりするのではなくて、それは始発駅でもあり、人間の育ちという長い営みのなかで、必要なときに与えられる必要な手のひとつであればよいわけである。保護は自立と対立するものではなく、保護のなかにも自立がめばえ育っている。また育てるべきものであろう。その育ちこそ尊いのだと思う。」(「手をつなぐ親たち」1966, no.128: 6-7(2)小林提樹(島田療育園園長) 「最近、コロニー作りがだんだん具体化し、大変希望をいだいています。私がコロニーに望みたいことは、あらゆる施設、あらゆる家庭で困っている者は全部引き受けてやる一番最終的なものであってほしいということです。」(「両親の集い」1966, no.127: 4(3)北浦貞夫(重症心身症害児(者)を守る会会長) 「コロニーの目的はもちろん、障害者の一人一人が互いに助けあいその障害を乗り越えて生き甲斐のある生活を送ることにあります。そしてこのコロニーもまた重症児(者)のような最底辺のものの存在をも無視しない暖かいものであってほしいと思います。このことあってこそ、コロニー自身、たえずその使命を自覚することになるのだと思われます。また万一不幸にして現在の枠からもれるようなものが生じた場合にも、コロニーはそれらの人々を受入れて、適切な療育の方式を研究し見出してゆく重要な役目をもっていると思います。コロニーもまた、国立、公営を問わず、国民の意思の現れとしてひろく一般の奉仕活動をうけ入れ、国民と一体になって活動することにより、はじめてその意義を全うするものと信じます。」(「両親の集い」1967, no.129: 3(4)皆川正治(全日本精神薄弱者育成会事務局長)「コロニーがほしいとは育成会ができた当時からの要望であるが、当時は施設の数も少なく、重い者は入れず、18才を20才まで延長しても成人の施設がないからその後は出所しなければならず、授産施設もなく、職場も例外的であり、施設や社会からはみ出すばかりといった状況であった。そういう状況の下でむずかしいことを言わずに受け入れてくれ、一生そこで暮らすこともできる場所を僻遠の地でもいいからほしいと願って描いたのがコロニーである。それから十数年を経て施設の体系も整いはじめ、数も増え、授産の体制も地域社会の受け入れも格段に発展してきている。そういう今日の情況の中でわれわれはコロニーという言葉で何を描くべきか、十分に考えなければなるまい。」(「手をつなぐ親たち」1967, no.139: 25 一つの地域社会ともいうべき総合施設糸賀一雄、小林提樹を含め総勢17名が参加したコロニー懇談会意見書昭和40196512にまとめられたが、その中でコロニーについて「基本的には一つの生活共同体である」とし、「障害の程度が重いため長期間医療または介護を必要とする者や、一般社会への復帰は困難であるがある程度の作業能力を期待できるものを、健康な人々(職員、ボランティア等)とともに一定の地域内に収容し、又は居住させて、保護、治療、訓練等を行うとともに、障害の程度に応じ生産活動と日常生活を営むようにする社会である」としている。また、これを構成する施設については、「介護を主とする施設、生活指導、生産指導を主とする施設のほか、医療機関、教育機関等各般の施設」が設置されるが、「単なる施設の集合体ではなく、各施設が有機的に関連づけられて、既存の施設と異なる新しい全体として一つの総合施設を構成する。」とし、その入所対象者は、「重症心身障害者のほか、中度、軽度の精神薄弱者、身体障害者で、コロニーにおいて保護を受けながら、生産または奉仕活動に従事することが適当と認められる者であって、長期間収容保護を必要とする者」としている。コロニー懇談会委員のそれぞれの思いが詰め込まれた盛りだくさんの内容になっており、具体的な施設として思い浮かべることは容易でないが、大まかに言えば、主として障害のある成人を対象とし、障害の重い人も軽い人も、保護、治療、訓練を受けながら、生産活動、日常活動を営むことのできる施設であり終生暮らすことできる一つの生活共同体ともいえるような施設ということになろうか。同意見書が出されてから4年余りが経過しようやく昭和45197054に国立コロニーを設置運営する特殊法人の根拠法である心身障害者福祉協会法が公布施行されたが、同法の17条(業務)において、心身障害者福祉協会が設置運営する福祉施設、つまり、国立コロニー「精神薄弱等の程度が著しい等のため、独立自活の困難な心身障害者を必要な保護及び指導の下に生活させるために総合的に整備された福祉施設」と定められた。また、厚生大臣による同法の提案理由説明では、「独立自活の困難な心身障害者のため、保護、指導、治療、訓練等各種の機能が有機的に整備され、これらの障害者がそこにおいて安心して生活を送れる一つの地域社会ともいうべき総合的な福祉施設」と表現されており、関係者各人が思い描いていたコロニー構想は、制度的に、「精神薄弱者援護施設」や重症心身障害児施設などの既存の施設とは異なり、特別の法律に基づき上述のような特別な機能を担う福祉施設としてしゅうれん収斂たのである2糸賀一雄のコロニー構想の変容については、蜂谷による「昭和20年代における糸賀一雄のコロニー構想と知的障害観」で詳しく論じられている。衆議院社会労働委員会(昭和45410日)で我が国における「コロニー」という用語の使用の沿革について問われた際に、厚生省児童家庭局長は次のように答弁している(衆議院社会労働委員会会議録から引用)「コロニーというような通称的なことばがわが国において使われ始めましたのは、ずっと以前でございます。ただ、このコロニーのことばは・・・いろいろ多種多様な取り方をしております。たとえば、・・・結核回復者等のアフターケア等をやる場合でもやはりコロニー、・・・ここで提案申し上げております心身障害者のいわゆるコロニーということばが本格的に取り上げられるようになりましたのは、大体昭和378年ごろから40年ごろだと私どもは思っております。特に、一番最初政府関係におきましてこのことばを使いましたのは、昭和40年の内閣総理大臣の私的な諮問機関であります社会開発懇談会というものが提言をいただいておりますが、その提言の内容としまして、このような独立自活の困難な心身障害者のための長期収容の一つの施設としてコロニーというものを本格的に推進をすべきである・・・これが発端でございまして、・・・厚生省は・・・コロニーの懇談会等を設けまして、今日ようやくその成案を得まして国会にご提案申し上げた次第でございます。」第1章 コロニー前史 戦前における知的障害のある人たちの保護明治時代、自然災害や経済不況などによ孤児、棄児、不良児等の増加が見られたが、その救済に政府は対応できず、このような児童の保護を目的とする事業は、民間の篤志家や慈善団体担っていた。保護を要する児童の態様やニーズに対応して各種の施設が設けられたが、孤児院(現在の児童養護施設)や感化院(現在の児童自立支援施設)において知的障害のある児童の存在が認められるようになった。(1)滝乃川学園の開設知的障害のある児童保護収容を目的とする施設こうし嚆矢となったのは、石井亮一による「滝乃川学園」であった石井は立教女学院に奉職中、明治241891年の濃尾地震(美濃・尾張地震)で多くの被災孤児が生じたことを知り、孤児となった女子を収容する施設「孤女院」したその中に2知的障害のある児童含まれていたことが契機とな明治301897「滝乃川学園」開設することとなった(「滝乃川学園百二十年史(上)」2011: 98, 135; 「特殊教育100年史」1978: 141石井亮一は2回渡米して、セガン未亡人から知的障害のある児童の治療教育について学び、「滝乃川学園」でその実践に取り組んだ1滝乃川学園の開設の経緯と同学園における実践、また、石井亮一の奮闘ぶりや功績については「滝乃川学園百二十年史」に詳述されているので本稿では言及しないが、石井亮一は我が国における知的障害のある人たちの福祉・教育の成立と発展の過程に大変大きな影響を及ぼした。当時知的障害のある人たちの福祉・教育に取り組んでいた先達の多くが石井亮一から大きな感化を受け、彼らが工夫発展させた独自の治療訓練がやがて我が国の知的障害児教育の源流となった。(2)石井亮一の感化を受けた先達滝乃川学園の開設後、明治末期から大正昭和初期にかけて、知的障害のある児童入所させ、保護と教育を行う施設が10所開設された。日本精神薄弱者愛護協会昭和91934年に設立された知的障害関係施設の全国団体であり、現在の「日本知的障害者福祉協会」の前身)の調べによると、知的障害児関係施設の数は、昭和12193712月現在で13、定員395名、入所者数は368人であった(「精神薄弱者問題白書1961: 64 これら施設の創設者として、脇田良吉(明治42年:白川学園開設)、川田貞治郎(明治44年:心療園開設大正8年:藤倉学園開設)、岩崎佐一(大正5年:桃花塾開設)、久保寺保久(昭和3年:児童教化八幡学園開設)、田中正雄(昭和6年:六方学園開設)らが知られているが、その大半は、石井亮一を訪れ、あるいは、弟子入りするなどして指導を受け、教えを受けるなど、石井亮一の感化を受けた人たちであった(「support2008, no.616-617; support2008, no.621-622例えば脇田良吉は石井亮一の個人教授を130回にわたり受けた。また、川田貞治郎は大正71918年、ペンシルベニア州の施設などでの研修後、石井亮一の仲介で藤倉学園を創設したが、渡米中に川田の妻が滝乃川学園で保母として実習を行った(「滝乃川学園百二十年史(上)」2011: 312, 513昭和919341022日には「日本精神薄弱者愛護協会」が設立されたが、初代会長には石井亮一が選ばれ、事務局も滝乃川学園に置かれた。発足時の加盟施設は、滝乃川学園、白川学園、桃花塾、藤倉学園、筑波学園(大正12年:岡野豊四郎創設)、八幡学園、小金井治療教育所及び浅草寺カルナ学園の8施設であった。ちなみに、「愛護」に掲載されている設立記念写真では、石井亮一を中心に、川田、岡野、久保寺らが並んでいる(「愛護」1969, no.139(3)知的障害児教育の源流これらの施設は、ほとんどが民間の事業であり、救護法、児童虐待防止法、少年教護法などの運用によって維持されていたが、それぞれ設立者の思想、施設運営方針、治療教育の方法等を反映して独自性を持っていた。一方、収容保護施設であり、重い障害があるため事実上義務教育から排除された児童に対する教育訓練を主たる目的とする施設であったという共通点があり、実践した教育は、いずれもセガン、その後のヘラーなどによって唱導された治療教育学(教育治療学)を基礎として、それぞれが工夫・発展させた独特な治療や訓練の方法によるものであった当時の施設長はもちろん、その職員もこれらの学問体系の下で献身的に治療訓練に取り組んだ専門家であったという2, 3戦前の知的障害のある児童を対象とする教育の沿革をたどると、明治231891年の長野県松本尋常小学校に設けられた特別な学級始まりとされ、明治後期にそのような特別な学級が全国的に設けられたが知的障害のある児童を対象とする独立校は、昭和151940に初めて大阪市に設置された。また、これらの学級・学校の教育内容・方法は、普通児の教育課程の程度を下げて懇切丁寧に教えることが中心であったが、一方上述の「滝乃川学園」をはじめとする知的障害児関係施設の教育内容・方法は、今日の知的障害のある児童に対する教育に直接つながるような質の高いものであった(「特殊教育100年史」1978: 138-145なお、児童福祉法制定により創設された「精神薄弱児施設は、養護施設に準じて扱われ、その指導理念は生活に重点が置かれ、戦前の治療教育的働きかけは著しく後退したが(「治療教育学」1974: 5)、滝乃川学園開設後70年以上も経過して開設された国立コロニーにおいて、その初代理事長であり、「治療教育学」を著した菅修が試みた治療訓練は、第3-3で詳述する実践の実態に照らせば、彼らの流れを汲むものであったと考えられる。(4)「精神薄弱児保護法制定」運動戦前の「精神薄弱施設はいずれも小規模であり、これら施設の定員を合わせても400名程度にすぎず、保護、教育を必要としている者のごく一部しか利用できない状況であった。知的障害のある人たちのほとんどは、家庭の中で母親など家族の犠牲的な愛情により、辛くもその保護が続けられていた(「滝乃川学園百二十年史(上)」2011: 658; 「精神薄弱者問題白書」1961: 13知的障害のある児童をはじめとする障害児や虚弱児などの社会的養護の問題は、第一次大戦後に教育的関心と治安対策から目を向けられるようになり、社会事業、教育、医療等の関係者から「精神薄弱児保護法制定」を求める運動が起こった。大正141925年の第1回全国児童保護大会では、法制定の要望も出された(「施設養護論」1967: 37-38また、昭和131938年、「日本精神薄弱者愛護協会」は「精神薄弱児保護法」に関する上申書を厚生省に提出し、社会事業大会委員会は8項目からなる「精神異常児保護法制定に関する件」を答申した。厚生省はこのような動きを受けて、「学童精神薄弱児」実態調査を実施するとともに、保護法の具体的検討に入った。その内容は、「国立精神薄弱児保護施設」、道府県保護施設、私立施設への国庫補助という、既存の少年教護事業を「精神薄弱児」に転用した体系であった。しかし、戦時体制がますます強化され、教育・福祉関連組織や事業も解体、縮小されていく中で、結局実現をみなかった(「滝乃川学園百二十年史(下)」2011: 899-9012 児童福祉法の制定と「精神薄弱児施設」の創設敗戦混乱期の児童の保護は浮浪児対策に始まった。戦災その他の原因で両親を失った18歳未満の孤児の数は、昭和2319482月の全国孤児一斉調査では全国で123,504人にも上り、当時の社会情勢を反映して不良児童が著しく増加した。これら孤児等の中には少なからず知的障害のある児童が含まれており、その対策の必要性を顕在化させる契機ともなった。また、劣悪な衛生環境や妊産婦、乳幼児の栄養不足のため乳幼児死亡率が高く、働く婦人のための保育所も不足していた。これらのことは児童保護の問題を根本的に解決するために法制度の早急な整備の必要性を政府に痛感させるに至った(「厚生省50年史」1988: 780(1)児童福祉法の制定政府は、法の対象を孤児・浮浪児等の問題児童に限定せず、全ての児童までに拡大して積極的に児童福祉の増進を図るようにすべき中央社会事業委員会の答申参考として児童福祉法案を作成した。昭和2219478月、新憲法下の第1回特別国会に提出し、「現下の社会情勢に鑑み、戦災孤児、引揚孤児、浮浪児等の保護並びに青少年の不良化防止及び教護等緊急な施策を実施するとともに一般児童の保健、厚生等児童一般の福祉を増進するため児童福祉に関する法律を制定する必要がある」提案理由説明を行った。法案においては、知的障害のある児童は、養護施設、療育施設(虚弱児施設・肢体不自由児施設・盲ろうあ施設を包括するものとして規定された施設)の対象児とは区別され専ら知的障害のある児童対象とする施設として「精神薄弱児施設」規定が設けられた4昭和2219471212日、児童福祉法が制定され、翌23194821日から施行されたが、同法40おいて、「精神薄弱児施設は、精神薄弱の児童を入所させて、これを保護するとともに、独立自活に必要な知識技能を与えることを目的とする施設とする。」と規定された。また、「精神薄弱児施設」の入所については、他の児童福祉施設と同様に「措置制度」が導入され、都道府県知事が個々の児童の障害の状況、家庭環境等を総合的に勘案して入所の要否を決定することとされた5(2)独立自活に必要な知識技能「精神薄弱児施設」の「独立自活に必要な知識技能を与えること」の内容については、日常生活行動の確立を目的とする「生活指導」、児童の能力に適応して社会生活にとって常識と考えられる程度の知識をできるだけ多く身につけさせる「学習指導」、児童の性能に応じた職業能力を与えていくことを目的とする「職業指導」が中心であった(「手をつなぐ親たち」1963, no.84このような規定の仕方については、理想過ぎるとか、知的障害のある児童の実態を無視しているなどの批判も一部にあったものの、あえて「独立自活に必要な知識技能を与えること」と規定とした理由については、必ずしも明らかでないが、次のような理由が考えられる(「わが国精神薄弱施設体系の形成過程」1982: 101-102児童の福祉増進という新しい法律の精神に鑑み、施設の目的も積極的に表現する必要があること税金による援助の対象者が後日納税者となれるような内容の援助でないと、国民の納得が得られないこと児童福祉法は18才未満を対象とするので、施設の役割についても18才までに達成しうるようなものとする必要があること知的障害のある児童の多くは一定期間にわたり適切な保護指導を受ければ独立自活が可能であり、また、独立自活の範囲には幅があって、身辺の処理がどうにかできる場合も含まれると考えるべきであること独立自活を目指していたため、施設における指導訓練の効果が期待できる中軽度の知的障害のある児童が主たる入所対象とされ、また、孤児、生活困窮など家庭環境の悪い児童優先して入所させる傾向にあった一方、指導訓練をしても自分で食事や歩行等を行うことは困難と見込まれるような重い身体の障害がある、あるいは、癲癇発作著しいなど、重度または重複の障害のある児童入所は難しい状況にあった(「手をつなぐ親たち」1959, no.36: 11-12; 「愛護」1971, no.168: 2また、独立自活の見込みのない重い知的障害などのある児童をもつ家庭ではそれを秘密にする傾向が強く、外部からの援護に対して拒否的態度を示すことが多かった(「厚生省50年史」1988: 977(3)「精神薄弱児通園施設」の創設知的障害が中程度で、特殊学級や養護学校に通えない児童については、保護者から通園による施設利用の要望が出されたことなどを背景に、イギリスの知的障害児トレーニングセンター(当時は「オキュペーションセンター」と呼ばれていた)の制度をモデルとして「精神薄弱児通園施設」を創設することとし、昭和321957年の児童福祉法の一部改正により、新たに児童福祉施設の一類型として、「精神薄弱児通園施設」が法定化された(「精神薄弱者問題白書」1972: 10「精神薄弱児通園施設」の対象児童は、昭和321957620日付け厚生省児童家庭局長通知により、原則として、6歳以上の中程度IQ2550程度)知的障害のある児童で、就学猶予・免除を受けているものとされた6, 7当時は特殊学級や養護学校が不足しており、施設入所は要しないが小中学校には通学できないというような知的障害のある児童の対策として重要なものであった(「精神薄弱者問題白書」1974: 66-773 年齢超過者と重度・重複障害児の問題「精神薄弱児施設」は、入所希望児童数から見れば慢性的に不足の状況であったが、施設数は年々着実に増加しつつあった8(1)年齢超過者の問題「精神薄弱児施設」入所た児童は、満18歳(必要があるとして延長措置が認められた場合は満20歳)に達すると、法律上その福祉の措置は打ち切られ、措置費は施設に支払われなかったしかし、「精神薄弱児施設」退所後の成人期を対象とした施設は制度上存在せず、また、地域での福祉対策も未整備で退所後の受け入れ先が無いためやむをえず「精神薄弱児施設」への入所を継続する18歳以上の者が増加し、児童福祉法制定後ほどなく年齢超過者の問題が顕在化した9菅修(当時、神奈川県立芹香院長・同県立ひばりが丘学園長)が行った精神薄弱児施設の年齢超過者の実態調査によれば、昭和271952における89施設の「年間収容実人員2,223うち18歳以上20歳未満の者は301人(13.5%20歳以上の者は55人(2.5%であったまた、18歳以上で退所した者(年齢超過者の退所者)の行き先(居所)については、成人の「精神薄弱施設」、精神病院、生活保護施設など何らかの施設に入所している者は74人(36.6%)、自己の家庭に帰っている者は76人(37.6%)、その他の居所(農家、工場、商店などへの住込み、女中としての住込みなど)の者は52人(25.7%)であった(「菅修追想録」1981: 27-34このような年齢超過者の問題について、例えば、「日本精神薄弱者愛護協会」は「20歳以上になっても生活をできない者はそのまま継続収容して生活保護法から児童福祉法に準ずる費用を保証」する旨を要望する(「発達障害白書戦後50年史」1997: 174-175)など、各方面から対応策が求められたことから、厚生省は次のような当面の対応策をとりまとめ、昭和261951213日付け厚生省児童局長・社会局長通知「精神薄弱児施設における年齢超過者の保護について」発出した。その内容は、既存施策の活用と現場で苦心惨憺で取り組んでいる関係者の工夫と努力に委ねるという域を出るものではなかった親許に帰し又は里親に養育を委託することが可能な場合も全くないとはえないので研究努力すること。特別な保護指導の下に特定の作業ならば可能であるような者については、労働省職業安定局長・厚生省児童家庭局長連名通知「年少者(児童福祉施設収容児童等)の職業紹介について」により雇用関係に入らせ又はその他の自営業に就かせるように努めること。生活能力がなく将来も施設による保護が必要なものについては、生活保護法による救護施設に収容して精神薄弱者としての保護を行うこと10救護施設は、児童福祉施設と併設することも一方法であること。適切な施設保護の下に指導を行えばいつかは施設より離れて生活し得る見込みのある者は、生活保護法の更生施設による保護も考慮されるべきこと。(2)「精神薄弱児対策基本要綱」昭和2719525月に結成された「精神薄弱児育成会」の陳情をきっかけとして、翌28195311月には、総理府の中央青少年問題協議会が総理大臣に対して、関係各省にわた知的障害のある児童の対策の基本に関する意見具申を行い、これを受けて同月の9日の事務次官会議において「精神薄弱児対策基本要綱」が決定された11同要綱は、関係各省の関連対策を、①実態調査、②当面の諸施策、③基本的諸施策に区分して網羅したという点では画期的なものであったが、「②当面の諸施策」として挙げられている対策は18歳を超えた者に対しては必要に応じて生活保護法による救護施設の拡充強化を図ること、国立教護院に不良行為を伴う知的障害のある児童収容する設備を整備充実すること、知的障害のある少年を収容している少年院を拡充強化すること、知的障害のある児童の医療のため精神病院の増床を図ることなど、すでに実施されていた対策を強化推進することにとどまり、問題の解決に効果的な対策と言えるものは少なかった。(3)重度・重複障害児の問題年齢超過者の問題とともに、重度、あるいは、重複の障害のある児童の問題が深刻化しつつあった。述のように「精神薄弱児施設」の目的が「独立自活に必要な知識技能を与えること」とされていたこと、さらに施設の職員体制や設備の不十分さ、福祉理念の未熟さのために軽度又は中度の障害の児童の受け入れが中心となり、重度・重複の児童は取り残されがちであった。特に、心身ともに重度の障害が重複している児童については、障害種別による縦割りの施設体系の谷間に置かれ受け入れる施設が無く、さらに、不治永患として医療の対象からも排除され、家庭で世話するしかないとい悲惨な状況にあった12このような状況が続く中で、全国知事会、全国社会福祉協議会、「日本精神薄弱者育成会」等の関係団体から、重度の知的障害のある児童の「収容保護」は、国が自ら直接行うべきであるとの強い要望がなされた(「国立秩父学園10年誌」1968: 31(4)「国立精神薄弱児施設」の開設中央児童福祉審議会は、昭和31195652日、「精神薄弱児のうち、白痴児、身体的障害又は性格異常のある者については、それぞれ、特別な保護指導を行う必要があるので、これらの児童を分類収容するため国立の施設を設置すること」を意見具申した。この意見具申を踏まえ昭和321957年に「国立精神薄弱児施設」設置のため厚生省設置法の一部改正が行われ、翌33195865日、「国立秩父学園」が定員100名で開園した13児童福祉法も時期を同じくして改正され、「国立精神薄弱児施設」の入所児童について、「その者が社会生活に順応することができるようになるまで、引き続き其の者を在所させることができる」と規定され、国立施設に限ってではあるが、年齢制限の問題は解消された。しかし、国立以外の「精神薄弱児施設」では年齢制限の問題が依然として存続し20歳まで延長しても現実的に独立自活できない者をどのようにするかという問題に直面し家庭への引き取りが困難なためやむを得ず精神病院に入院させ、あるいは、施設の責任で措置費以外の経費をもって引き続き保護指導を継続するという事例も少なからずみられた(昭和421967年の児童福祉法改正により、20歳以後も継続して措置入所が認められた一方、そもそも施設入所できず、在宅のまま取り残されていた重度重複の障害のある人たちの本格的な対策については、昭和40年代に入ってからの重症心身障害児のための施設の制度化まで待たねばならなかった。 「精神薄弱者福祉法」の制定「精神薄弱児施設」の年齢超過児の親たち、あるいは、家庭環境が相対的に恵まれているため施設入所の優先順位の低かった親たちなどが自ら経費を負担して施設設置に取り組んだり、あるいは、「精神薄弱児施設」などを運営する法人に施設設置を働きかけたりする事例もみられ、全国各地で知的障害のある人たちを対象としたいわゆる自由契約施設が少なからず開設された。例えば、滝乃川学園では、昭和281953年に、年齢超過児を対象として「事後指導部」(成人対象の自由契約施設で、定員30名)が設置された(「滝乃川学園百二十年史(下)」2011: 1211, 1217糸賀一雄池田太郎田村一二とともに近江学園を創設した後、昭和20年代から30年代にかけて不十分な制度の下にもかかわらず年長児、重度児、年齢超過者などのニーズに対応した施設を次々と開設していったその一つとして成人施設「信楽青年寮」が、入所児の親たち地元の人たちの協力により昭和301955年に開設され14 また、昭和331958年には「全日本精神薄弱者育成会」により三重県に成人施設「名張育成園開設された。なお、昭和35年度の「日本精神薄弱者愛護協会」の「全国精神薄弱者施設名簿」によると、「精神薄弱」関係施設総数172のうち、自由契約施設は33と約5分の1を占めていた(「愛護」1969, no.140: 16-18もとより年齢超過者の受け入れ先として自由契約施設だけでは到底足りず、成人の知的障害のある人たちを対象とする施設創設するための新たな法制度実現を求める声、また身体障害については18歳を過ぎると身体障害者福祉法に移行できるのに知的障害については年齢により法制度が断絶したままであるという矛盾の解消を求める声は年々増大した15(1)「精神薄弱者福祉対策要綱(案)」このような情勢の下、厚生省は精神薄弱者対策に本格的に取り組むこととし、昭和331958年、「精神薄弱者福祉対策要綱(案)」を作成し、学識経験者による非公式の懇談会を開いて意見聴取したこの要綱(案)に盛られた基本的考え方はおおよそ次のようなものであった(「わが国精神薄弱施設体系の形成過程」1982: 250-252; 「糸賀一雄著作集3」1983: 475-482最も根本的で急を要する福祉施策として、施設収容」の援護施策を行うこと重度の者と軽度の者とではその症状においても、指導訓練方法においても著しい差異が認められるので、援護施設もその目的を効率的に遂行するためには、対象者を次のように限定して運営することが望ましいこと「精神薄弱者更生施設」は、主として職業的自立の可能な軽度の知的障害のある人たち収容し、職業訓練を行い、併せて社会適応性の付与に努めて社会復帰を図る。「精神薄弱者収容授産施設」は、社会復帰の可能性は少ないが、適当な保護指導によってある程度の技術的作業を習得しうる知的障害のある人たち収容し、適当な種目の授産事業を行いつつ、保護指導を行う。「重度精神薄弱者保護施設」は、主として知能指数25以下の重い知的障害のある人た収容して、長期間継続的に生活指導を行いつつ保護を加える。また、この要綱(案)には、昭和34年度からの5年の整備計画として、「精神薄弱者更生施設(当分の間、収容授産施設を兼ねる旨の注が付けられている都道府県ごとに各1、「重度精神薄弱者保護施設」はブロックごとに各1を目途に設置すること掲げられていた。昭和34年度予算で、公立の精神薄弱者援護施設(定員70名)3所分(北海道、東京都、岡山県)を確保するとともに、昭和3419593月の社会福祉事業法の一部改正により、精神薄弱者援護施設を経営する事業を第一種社会福祉事業に追加した16(2)「精神薄弱者福祉法」の制定社会福祉事業法の一部改正に引き続き翌3519603精神薄弱者更生相談所精神薄弱者援護施設等の各種対策を盛り込んだ精神薄弱者福祉法成立し、41日から施行された精神薄弱者福祉法1において、「この法律は、精神薄弱者に対し、その更生を援助するとともに必要な保護を行い、もって精神薄弱者の福祉を図ることを目的とする。」と規定された「更生」とは、その障害を克服し健全な社会生活、家庭生活を営むようになることに限らず、施設における指導訓練を受けた結果、着脱衣や食事を一人でできるようになることも含むと解されていた。また、「必要な保護」を行うことを明記したのは、知的障害のある人たちについては社会的自立を中心とした更生を期待することは困難であるので、これらの者に対しては必要な保護を行うこととしたものであり、長期の入所も想定していると解釈し得る規定であった。この点は、身体障害者福祉法の目的規定中の「更生のために必要な保護を行い」という文言とは異なる規定の仕方であった17「精神薄弱者援護施設」については、精神薄弱者福祉法18条において、「十八歳以上の精神薄弱者を入所させて、これを保護するとともに、その更生に必要な指導訓練を行う施設とする」と規定された。上記のように、知的障害のある人たちのための施設としては、「精神薄弱者更生施設」、「精神薄弱者収容授産施設」、「重度精神薄弱者保護施設」の3種類が望ましいとされていたが、乏しい予算で最大限の効果を発揮させるためには、これらつの性格を兼ねた施設でもよいから速やかに各県1所は公共施設を設けるように指導すべきであるとの考え方から、施設の区分を設けず、前年の社会福祉事業法の改正により法定した「精神薄弱者援護施設」う用語とその定義をそのまま「精神薄弱者福祉法」の規定に用いた18「入所」には、「収容保護」のほか「通所」も含まれるものとされ、「精神薄弱者援護施設基準(昭36年厚生大臣告示)」においては、「収容援護施設」と「通所援護施設」に区分して、施設基準、運営基準等が定められた。お、厚生省社会局長・児童家庭局長通知(昭和3674日)により、「精神薄弱者援護施設」と「精神薄弱児施設」との併設が認められた。(3)「精神薄弱者援護施設」をめぐる実情このように制度的には児童から成人へ引き継ぐ施設体系が整えられたが、「精神薄弱者援護施設」への入所希望者数に対してその施設数が著しく不足することが当面続くことが見込まれたことから昭和351960427日付け厚生事務次官通知精神薄弱者福祉法の施行について」においては、在宅指導及び職親委託等を活用するほか、生活保護法に基づく救護施設及び更生施設その他既存の社会福祉施設等を利用する方法も十分考慮する旨の方針が示された。さらに、昭和3919644月から生活保護法の救護施設のうち、その入所者数の70%以上を知的障害者が占めるものについては「精神薄弱者援護施設」に転換することとされ、13の救護施設が転換した。このような施設の量的な不足の題に加え、「精神薄弱者援護施設」の運営基準に関して、当初入所期間は3年を原則とする案で議論されていた経緯などもあり「精神薄弱者福祉法」制定後暫くの間は、い知的障害のある人たちは更生の見込みの少ないものとして施設入所が難しい状況が見られた。また、施設の職員の業務負担が過重になること、他の入所者の処遇低下懸念されることなどを理由として重い知的障害のある人たちの受け入れに施設側が難色を示す事例も見られた19「精神薄弱者福祉法」が制定されても、重い知的障害のある人たちに対する対策は思うように進まず、「精神薄弱者福祉審議会意見具申」(昭和4212月)では、従来、わが国における精神薄弱者に対する施策は、自立更生の可能性が大である者、いいかえれば、保護指導が容易である者に対する施策に重点を置いて進められ、自立更生の見込みに乏しい重度の精神薄弱者については、障害福祉年金の対象とはされていたが、施設処遇その他の分野ではほとんど顧慮されることがなかった。」と対策の貧弱さを率直に指摘し(4)更生施設と授産施設「相当な数にのぼる精神薄弱者にあっては、社会生活適応能力がかなり乏しいこと等に起因し、一般の事業所等に就労することが極めて困難な状況である」ことから、「精神薄弱者援護施設」の一種として「精神薄弱者収容授産施設」の整備を図ることとして、昭和39527日付けで厚生省社会局長通知「精神薄弱者収容授産施設の設置及び運営について」を発出した。さらに、昭和421967年に「精神薄弱者福祉法」の一部改正われ「精神薄弱者援護施設」「精神薄弱者更生施設」と「精神薄弱者授産施設」の種類に区分された。「精神薄弱者更生施設」は、「これを保護するとともに、その更生に必要な指導訓練を行うことを目的とする施設」と従前の「精神薄弱者援護施設」の規定をそのまま引用しことから、社会的自立を中心とした更生を期待することは困難とされていた重知的障害のある人たちも入所対象者として想定した規定となっており、その意味では、「更生施設」と称しながら更生期待することは困難とされていた重い知的障害のある人たち」入所対象としているというわかりにくい名称と規定の仕方であった。その当初の運営については、昭和42196712月の精神薄弱者福祉審議会意見具申が指摘しているように、「社会復帰を図るための指導訓練に主眼を置いて運営が行われているためいきおい重度者その他特別の保護を要する者の受入れ体制が不十分である」という実情にあった。「精神薄弱者授産施設」については、「雇用されることが困難なものを入所させて、自活に必要な訓練を行うとともに、職業を与えて自活させることを目的とする施設」と規定された。更生施設と授産施設とに区分された後、施設の現場では、①更生施設から直接就労をめざす一方、就労できない人が授産施設へという方向での実践と、授産施設の設備が一般企業に近い条件をもち得ることから、更生施設から授産施設の訓練を経て就労へという方向での実践、というように通りに分かれていくこととなった(「発達障害白書戦後50年史」1997: 16120(5)在宅者対策昭和331958年の「精神薄弱者福祉対策要綱(案)」において「施設収容援護が最も根本的で急を要する」と強調されていたように、「精神薄弱者福祉法」の制定の大きな狙いは「精神薄弱者援護施設」の整備の推進にあったといえるが同法には、各都道府県に設置され「精神薄弱者更生相談所」による専門的判定と相談指導、福祉事務所に配置された「精神薄弱者福祉司」や社会福祉主事による指導、職親委託など在宅の「精神薄弱者」を対象とする施策も定められていた。また制度上は「精神薄弱者援護施設」通所施設を設置できるようになっていたが、昭和40年代始めまで通所施設は設置されず、在宅者の対策は現実には全く不十分な状況であった21なお、昭和3919647に「重度精神薄弱者扶養手当法」が制定され、施設入所児と在宅児との均衡、20歳以上の障害者に対して支給されていた障害福祉年金との均衡等の観点から、家庭において20歳未満のい知的障害のある児童を養育している父母等に対して特別の手当が支給されることとなった22明治291896年、石井亮一は渡米して、ミネソタ州やマサチューセッツ州などの州立「白痴学校」で研修し、また、ハーバード大学などで聴講した。また、ボストンに程近いケンブリッジでヘレン・ケラーと会見し、さらに、ニュージャージー州でセガン未亡人の経営する「通学制白痴学校」を見学した(「滝乃川学園百二十年史(上)」2011: 250-260戦前の「精神薄弱児施設」にどのような児童が入所していたかについては、例えば、岡野豊四郎が大正12年に創設した旧筑波学園の当初の入所児に関して、次のような記述がある(「戦前知的障害者施設の経営と実践の研究」2009: 197-208「第一は、少年法保護処分者で、入所時年齢は1417歳くらいであり、そのほとんどが就学経験を有し、社会に出てからの触法行為に対する入所処分である。障害、発達遅滞は比較的軽度であろうと思われる。第二は、家庭からの直接委託による入所者中年齢が10歳前後の者であり、障害が比較的重く、就学経験をもたないか、就学しても12年で中途退学した者がほとんどである。就学しえないことから専門的で適切な保護教育を求めるための入所であることが多い。第三は、直接委託ではあるが、入所年齢が15歳以上20歳前後に及ぶ者で、年長になって家庭での養育困難が増大したり、これらの年齢になって受障し、入所する者などである。」菅修が「愛護」に5回にわたり執筆した記事が「『愛護』論苑集」としてまとめられているが(「愛護」1970-1975, no. 154-212)、その中で石井亮一らの治療教育について解説している(「菅修追想録」1981: 47-48) 。 「療育施設」については、昭和2419496月の児童福祉法の改正で盲ろうあ児施設が独立し、さらに翌255月の改正で虚弱児施設と肢体不自由児施設に分離したことにより、法文上から「療育施設」は消滅した。措置制度は、児童福祉法のみならず、その後制定された身体障害者福祉法、「精神薄弱者福祉法」、老人福祉法等においても採用された。北場は措置制度について次のように解説している(「戦後『措置制度』の成立と変容」2005: 19 -20)。「・・・国や福祉関係団体等の説明するところによると、措置制度とは、①最低限度の生活を保障する国の債務を遂行するものであり、②入所を要する者の数が施設の入所定員に比べ多い場合に入所の優先順位等の判断を公の責任(=職権主義)で行う行政処分であり、③民間社会福祉事業者が『措置委託』を受けて行う福祉サービスは公の責任で行うミニマム保障であり、④措置費は職員配置や施設設備に関する最低基準を維持するために要する費用として支弁され、利用者の負担能力に応じて徴収される額を除いたものは国、都道府県、市町村で負担されるもの、ということになる。」「精神薄弱児通園施設」の対象児童をIQ50 以下としたのは、当時、特殊学級や養護学校が不足していたこともあり、IQ50 以下の学齢児は就学義務を猶予・免除し、児童福祉法に委ねるという方針を文部省が採っていたためと考えられる(「精神薄弱者問題白書」1974: 66-77)。その後、特殊学級や養護学校の整備が全国的に進み、昭和48197312月には昭和54年度からの養護学校教育義務制実施の予告政令が制定され、また、障害のある子どもの早期療育の重要性が強調されるようになったことから、4919744月に厚生省児童家庭局長通知が一部改正され、「精神薄弱児通園施設」の対象児童の要件から、「6歳以上」と「就学の猶予・免除」が撤廃され、早期療育の役割を担う通園施設という位置づけが明確にされた。なお、肢体不自由児施設に「通園児童療育部門」が設置されたのは昭和381963年、肢体不自由児通園施設が制度化されたのは昭和441969年であった。昭和351960年に「日本精神薄弱者愛護協会」が行った知的障害のある児童の施設実態調査によれば、措置児童の知能指数(IQ)の状況は、入所施設と通園施設では次のようになっており、通園施設は、その創設の趣旨に沿って中度の知的障害のある児童を中心に受け入れていたことがわかる(「精神薄弱者問題白書」1961: 71-72)。                入所施設     通園施設◇平均年齢        127月     103◇知能指数(IQ)【平均】   41.4        38.6     ~24          17.51%      11.16%   2550          47.02       71.82   50~            35.47      17.02昭和20年代から30年代にかけての「精神薄弱児施設」の施設数等の推移は次の通りである(「精神薄弱者問題白書」1963: 291)。施設数(ヶ所)  定員(名)  現在員(人)◇昭和24 4 20 819 677◇    2812 65      3326 3173◇    3012 75      4218 4382◇    3212 91      5565 5264◇    3412 113      8269 7735戦前の「精神薄弱児施設」では、もとより年齢超過者の問題はなかった。ちなみに、「愛護」では、戦前の「精神薄弱児施設」における20歳以上の者の占める比率についての調査結果が掲載されている(「愛護」1971, no.168: 13)。「戦前の施設はかなり自由な形で対象者を入所させていたので、年齢制限という問題は勿論、全くなく、愛護協会において菅修が滝乃川学園・藤倉学園・八幡学園・六方学園について、戦前の昭和10年、11年、12年の3年にわたって入所者の年齢構成を調べたところ、20才以上のものが19.9%10年)、25.7%11年)、25.7%12年)おり、しかも、この20才以上のものの占めている割合が設立の古い施設程大きいという結果を報告している。」また、児童福祉法が施行された昭和231948年に滝乃川学園に入所していた人たちの年齢構成は、「6歳から19歳までが45人、20歳以上は15人で、最高齢は66歳」であり、この時点ですでに、20歳以上の成人が4分の1を占め、児童福祉法により「精神薄弱児施設」が法定化されたことに伴い、早くも年齢超過者の問題に直面することとなった(「滝乃川学園百二十年史(下)」2011: 1141)。昭和3519605月の厚生省社会局調べによると、「精神精薄者福祉法」が制定される以前に「精神精薄者」を主として収容していた生活保護法による救護施設と更生施設は全国に12施設あり、その定員総数は836であった(「精神薄弱者問題白書」1961: 64)。なお、「救護施設」とは、「身体上又は精神上著しい障害があるために日常生活を営むことが困難な要保護者を入所させて、生活扶助を行う施設」である。昭和2719525月、東京都千代田区立神亀小学校の「特殊学級」の保護者と教師によって「児童問題研究会」の第1回懇談会が開催されたが、この会は全国関係者の関心を呼び、同年7月、「精神薄弱児育成会」(「手をつなぐ親の会」)が結成された。その「精神薄弱児育成会」の陳情がきっかけとなり、中央青少年問題協議会が「精神薄弱児対策基本要綱」を作成するにいったが、「手をつなぐ親たち」では、基本要綱の案文は、「菅修先生と糸賀一雄先生の協力によりまとめられたもの」であり、基本要綱は「日本における精神薄弱対策発展の歴史上一つのエポックを画し、以来今日まで施策推進の背骨となった」と高く評価している(「手をつなぐ親たち」1964, no.102: 8-21)。日本赤十字社産院の医師で、昭和3619615月に創設された「島田療育園」の園長となった小林提樹は、重症心身障害児と称されるような障害の重い子どもたちが児童福祉法の谷間に置かれた理由について次の4点をあげている(「両親の集い」1968, no.152: 24)。収容施設の立場からは、このような障害児はあまりに経費がかかって処遇できないこと児童福祉施設13部門は縦横に見事に割り切られ、峻厳に法が遵守され、法運営は排除的であったこと知識も経験もなかったので、技術的に手が出せなかったこと国民的な感情、あるいは精神的風土ともいわれるべきものがあること上記(4)の「国民的な感情」、「精神的風土」とは何かについて小林提樹は具体的に記述していないが、糸賀一雄による次のような指摘が参考になる(「手をつなぐ親たち」1966, no. 128: 5)。「重度や重症の子をかかえた親ごさんたちは、じつに長い間、絶望的な苦悩のなかに置かれていました。対策の順番がまわってこなかったからです。軽いひとたちへの対策でさえまだ充分ではないのに、投資しても社会へのリベートが期待できないひとたちの対策は、あとまわしになってもやむを得ないという考え方が底の方に流れていたのです。」国立秩父学園の入所対象児は、「精神薄弱の程度が著しい児童又は盲(強度の弱視を含む)若しくはろうあ(強度の難聴を含む)である精神薄弱児」とされた。糸賀一雄が池田太郎、田村一二らととも昭和20年代から30年代にかけて年長児、重度児、年齢超過者などのニーズに対応した施設を次々と開設していった経緯については、「この子らを世の光に」、「この子らを世の光に-糸賀一雄の思想と生涯」に詳述されている。糸賀一雄は、身体障害者福祉法に相当する法律の制定の必要性について、「暦年齢の18歳で児童でないとした児童福祉法の機械的な運用に対しては、遺憾の意を表明しなければならない。・・・綜合的な社会保障が確立されるまでは、一つの段階として、精神薄弱者(児童を含む)のための単行法が制定されるべきであろう。ちょうど児童福祉法とともに身体障害者福祉法があるように、精神薄弱者福祉法(仮称)といった法律が、児童福祉法の根本精神をさらに拡大しつつ独立すべきものなのである」と訴えている(「糸賀一雄著作集2」1982: 496)。昭和34年改正後の社会福祉事業法の第2条第2項第6号において「精神薄弱者援護施設」とは「十八歳以上の精神薄弱者を収容し、これを保護するとともに、その更生に必要な指導及び訓練を行う施設」と規定されていた。「精神薄弱者福祉法 解説と運用」では、法第1条の解説の中で、「必要な保護」を行うとした理由について次のように説明している(「精神薄弱者福祉法 解説と運用」1960)。「・・・更生援助のほかに、必要な保護を行うとしたのは、重度の精神薄弱者については、社会的自立を中心とした更生を期待することは困難であるのでこれらの者に対しては必要な保護を行うこととしたのである。この点、身体障害者福祉法が第一条において『・・・身体障害者の更生を援助し、その更生のために必要な保護を行い・・・』と規定し、その対象を更生の期待される身体障害者に限定し、かつ、更生保護を法の目的としているのと趣を異にし、更生の期待が薄い最も重度の精神薄弱者にも等しくこの法律を適用し、各人の置かれた状況に応じて必要な保護を加えようとするものである。」「精神薄弱者福祉法 解説と運用」では、18条(「精神薄弱者援護施設」)に関して「乏しい予算で最大限の効果を発揮させるためには、これら三つの性格を兼ねた施設でもよいから速やかに各県1ヶ所は公共施設を設けるように指導すべきであるとの方針をとり」と説明している。「精神薄弱者福祉法」が制定されてから暫くの間は「精神薄弱者援護施設」は中軽度者を受け入れ、入所期間について制限する事例が多く見られたことに関して、「精神薄弱者問題白書」に次のような記述がある(「精神薄弱者問題白書」1982: 129)。「昭和35年精神薄弱者福祉法の施行によって誕生した精神薄弱者援護施設は、全国的に数が少なかった初期においては、軽・中度の精神薄弱者を中心に入所させる傾向があり、施設入所の期間も2年から3年程度と限定した施設が多く、都道府県の行政機関も指導監査等に際し、入所期間を厳しくチェックした時期があった。」厚生省の説明では、更生施設は「入所対象者に限定がなく・・・軽度の者から重度の者まで、広範囲の者が対象になりうる」のに対して、授産施設についてはその目的が「職業を与えて自活させることにある点からみて、すでに作業能力を身につけている者であることが前提になるものと考えられる」としている(「愛護」1972, no. 177: 5-6)。昭和43年度の予算措置で、知的障害の子どもを持つ親の会による自然発生的な地域の相談活動を基に「精神薄弱者相談員」制度を発足させ、1福祉事務所に2名、全国で合計2000名の相談員を置くこととした(「精神薄弱者問題白書」1969: 21)。昭和417月の法改正により、重度の身体障害児も支給対象に加えられ、法律の名称も「特別児童扶養手当法」に改められた第2章 重症心身障害のある人たちの施設の制度化 「全国重症心身障害児(者)を守る会」の設立1日本赤十字社産院の小林提樹医師は、昭和20年代の中頃から同院の小児科病棟に「重症障害児」入院させていた産院に併設された乳児院入所していた乳児の多くは、満2歳になると養護施設、肢体不自由児施設等に移ったが「重症障害児」の場合はこれらの「独立自活」を目的とする児童福祉施設に移ることができず、やむを得ず医療扶助を受けて小児科病棟に入院させていたしかしながら、「重症障害児」は不治永患のため医療の対象外であるとして健康保険と生活保護の医療扶助の停止措置が採られまた、乳児院における年齢超過児の措置は認められないなどの問題に直面し小林提樹は、このような子どもたちを守るという立場から積極的に社会的発言を行うようになった(1)日赤両親の集い小林提樹のもとに「重症障害児」の父母が集まり、療育の話を聞くという会合の第1昭和30195579日に開催され、同年12月には「日赤両親の集い」という名称の組織を作るに至り、以後毎月第二土曜日に集いを開催するようになった。昭和321957、全国社会福祉協議会の中の全国乳児院研究協議会、さらに全国社会福祉大会において、小林提樹は「重複欠陥の処置と対策」として「重症障害児」問題の実態とその対策の必要性を訴えた。権利を奪われた子供たちがいることは社会福祉の理念にもとると大きな反響を呼び、翌年の全国社会福祉大会において「全国的な重症心身障害児対策委員会の設置」が議決され、具体的な対策を求める運動の第一歩となった。このような運動を進める中で、関係者の間では、重症の障害のため障害種別縦割りの児童福祉施設の谷間に置かれ、「重症障害児」、「重症欠陥児」などと称されていた児童を「重症心身障害児」と称することで統一し2(2)収容施設設置運動昭和33195811月、全国社会福祉協議会に「重症心身障害児対策委員会」が設置され、新しい概念の「収容施設」を作り、「児童福祉法から漏れているものを収容する」という「収容施設」設置運動を起こすこととなった。同委員会を中心に広く心身障害関係団体に呼びかけることにより「重症心身障害児対策懇談会」が誕生し、さらに昭和3719623月には関係12団体から成る「重症心身障害児対策促進協議会」へと発展して同年7月「重症心身障害児対策の促進について」をとりまとめて国に要望した。この要望書の中では、重症心身障害児の定義を「単独または複合の障害が重度で、養護に多大の人手を要し、かつ療育の効果の期待しがたい子供たち」及び療育は可能であるが障害が複合しているなどのため、養護が困難な子供たち」とし、障害種別で縦割りの体系に整理され、かつ、独立自活を目指していた障害児施設の入所対象から洩れていた児童を広く救うことを意図した定義の仕方となっていた。また、「当面の対策」の一つとして、主として上記に該当する子どもたち収容するための「専門施設の建設」を掲げているが、その施設の条件として次の2点を挙げた。きな収容力を有し、年齢、性、病状等によって小舎に分類収容を行う。ある程度の医療、教育、レクリエーション、職業訓練、授産等の設備を有すること。(3)島田療育園の開設小林提樹その下に結束する父母達は、国への要望を行うことと並行して「重症心身障害児」のための施設の実現に取り組み、昭和3619615月に「島田療育園」開設にこぎつけた厚生省は、「島田療育園」に対して、療育研究の委託という名目により昭和36年度400万円、37年度600万円を補助した。また、昭和3719627月の「重症心身障害児対策の促進について」の要望に対応するとともに、「びわこ学園」開設にも備えるため、昭和38726日付けで厚生事務次官通知「重症心身障害児の療育について」を発出し、「重症心身障害児施設とは医療法に定める病院であり、つ、重症心身障害児を入所させて療育を行うために必要な設備および機能を有する施設とした。その運営費については、医療保険各制度による診療報酬の収入患者の自己負担額相当する額の補助金及び福祉施設の運営の経費として重症児指導費と称する補助金を充てることとなった。(4)「全国重症心身障害児(者)を守る会」の設立重症心身障害児(者)の父母達は、全日本精神薄弱者育成会や全国肢体不自由児父母の会に加入していたが、これらの会の要望事項では中軽度の障害のある人たちの対策がとかく優先され、重症心身障害児(者)の対策が進まないことに日頃からやりきれない思いを抱いていた上述の厚生事務次官通知の実施要綱の第三では「入所対象児童」と「児童」に限定するかのような表現になっていたことから、ようやく島田療育園を開設したのに18歳以上の者が対象外になってしまう、施設から出されてしまうとの危機感、絶望感を高めた。これきっかけ既存の団体の活動に見切りをつけ、「皆で力を合わせて『この子ら』を守ろう」、「幸せをつかむためには積極的に働きかけよう」と重症心身障害児(者)の親の会の組織化に踏み切った。昭和391964613日に「全国重症心身障害児(者)を守る会(以下「全国守る会」と略称する。)が任意団体として発足し、昭和411966421日に社会福祉法人化された3「全国守る会」の中心は、小林提樹が主催する「両親の集い」に参加していた父母達であったが、島田療育園の入所児童どの施設にも入れない重度障害又は重複障害のある児童であり、その障害の種類、症状、障害像は多様であった。このため、全国守る会は「一人ももれなく守る」、「一人ももれない施策」をモットーに重症心身障害児(者)のために抜本的な対策を講じるため乳児から老人に至る終生を一貫した総合的な特別な法律」を制定すること、重症心身障害児(者)に対して専門的な療育を行う施設を国の責任により全国各地に設置することなどの対策確立を純粋かつ強力に働きかけた(「両親の集い」1964, no. 96: 18-20作家の水上勉(脊椎破裂による重症心身障害児の父親)が「拝啓池田総理大臣殿」と題する公開状を中央公論昭和386月号発表し、重症心身障害児の施策の立ち遅れを強く訴え、国民の間に大きな反響を呼んだこれを契機として、また、「全国守る会」の真摯な訴えに心を動かされて、政治家の中にも重症心身障害児問題の深刻さを理解し、その対策確立に取り組む者も次第に増えてきた。なお、昭和39年度からは、昭和391964313日付け厚生事務次官通知「重度精神薄弱児収容棟の設置について」により、既存の公立「精神薄弱児」施設に特別な設備を有する収容棟付設してこれに「重度精神薄弱児」を「収容保護」することとし、同年度は、公立「精神薄弱児施設」5カ所に定員20名の「重度精神薄弱児収容棟」を付設する予算と、その措置費に重度加算を新設する予算が計上された(昭和4819738月からは民間施設にも付設できることとされた)。しかしながら、その重度加算の額では十分な職員の配置ができず、「心ならずも閉じ込め」、「ある程度以上重い、異常行動の強い子供の入園を断る」という実態が見られ、「全国守る会」の切実な願いに応え得るような施策とはならなかった(「手をつなぐ親たち」1970, no.167: 28-292 国立療養所委託病床と重症心身障害児施設「全国守る会」は、上記のように、重症心身障害児(者)に対して専門的な療育を行う施設を国の責任により全国各地に設置することを強く要望していたが、政府はこれに対応するため、昭和41年度予算編成の過程で、国立療養所に重症心身障害児(者)収容するための病床を設け、都道府県知事が国立療養所に入所委託するという仕組みを創設することとした。(1)国立療養所重症心身障害児病床国立結核療養所では昭和301955をピークに入院患者数は減少傾向を示し、年を追うに従って病床利用率の低下が目立つようになり、国立療養所の再編が課題となってきた。他方、重症心身障害児や進行性筋萎縮症児などの重い障害のある児童の受入れ施設の確保は、早急な対応が求められる切実な問題であったが、大きな財政負担を伴うため、容易に実現することは期待しがたい問題であった。このような状況の中で、厚生省は、昭和36年度から実施した国立療養所の再編成の中で、重症心身障害児(者)や進行性筋萎縮症児(者)などに対する特殊な療育医療への社会的要請が高まっていることに対応するとして、その受け入れため病床を編成替えするという方針を打ち出した。国立療養所の結核病床の転換と重症心身障害児施設の整備という懸案を一挙に解決しよう企図したものであった4昭和41年度予算の中で、10所の国立療養所に480床、国立民営の施設「整肢療護園」(東京都板橋区に所在)に40床、合計520床を整備する経費を計上した。「全国守る会」が要望する国の責任により設置する「専門的な療育を行う施設」は、国立療養所の結核病床転換を想定したものではなかったが、厚生省からの要請を受けて、国立施設実現のための現実的な対応策として受け入れることとなった5昭和4119667月の全国大会では、「国立重症児(者)施設として、国立療養所内に新設されることは・・・誠に大きな」であるが、一日も早く全国の重症児(者)が入所できるように引き続き施設の増設と充実を要望した(「両親の集い」1966, no.123: 25(2)重症心身障害児施設の法定化島田療育園をはじめ、びわこ学園、秋津療育園など重症心身障害児施設いずれも重い障害のある子を持つ親たち、民間の有識者や篤志家など、既に言及したような障害種別による縦割りの施設体系と、児童施設であるが故の年齢制限という現実に直面して、やむにやまれぬ気持と絶えることのない熱意を原動力としていばらの道を切り拓いてようやく開設にこぎつけたという経緯を有していた「全国守る会」は「国立重症児(者)施設」の整備推進を要望する一方、「国立施設には国立施設の使命があり、民間施設には民間施設の特質がある」として、既存民間施設及びこれから設置される民間施設の建設に対する財政措置を要望するとともに、重症児(者)を法的に認めるために心身障害児(者)総合福祉法の確立を強く要望していた(「両親の集い」1966, no.123: 26これに対応すべく厚生省は国立療養所病床転換と並行して、重症心身障害児施設の法定化について検討を進め重症心身障害児施設を児童福祉施設として法定化すべき旨を提言した中央児童福祉審議会意見書(昭和4119661223日)に基づき児童福祉法の改正に取り組むこととなった。児童福祉法の一部改正昭和42196781日に公布施行され改正後の児童福祉法第43条の4において、重症心身障害児施設は、「重度の精神薄弱及び重度の肢体不自由が重複している児童を入所させて、これを保護するとともに、治療及び日常生活の指導をすることを目的とする施設とする」と定められた。児童福祉施設最低基準の中で、病院として必要な設備のほか観察室、訓練室、浴室等を設けること、病院として必要な職員のほか児童指導員、保母、心理指導を担当する職員等を置かなければならないこととされた。このように、重症心身障害児施設は、児童福祉施設であるとともに、医療法の病院としての基準を充たすものとして位置づけられた。また、児童福祉法第27条において、都道府県知事は重症心身障害児施設におけると同様な治療等を行うことを厚生大臣が指定した国立療養所に委託することができるが定められた。これにより、昭和41年度から整備が開始された国立療養所重症心身障害児(者ための病床(以下「国立療養所委託病床」、児童福祉法に根拠を有することとなり国立の重症心身障害児施設に相当する施設(病棟)が実現することとなった。なお、この法律改正の際に、18歳を超ても「その者が社会生活に順応することができるようになるまで」重症心身障害児施設又は国立療養所委託病床入所を継続できるとともに重症心身障害児施設と国立療養所委託病床とを相互に変更することができること、18歳以上の重症心身障害のある者を重症心身障害児施設又は国立療養所委託病床に入所させることができることも児童福祉法に定められた。「精神薄弱児施設」についても「引き続き入所させておかなければその者の福祉をそこなうおそれがあると認めるときは満20歳に達した後においても引き続きその施設に在所させることができる」との規定が設けられ、年齢制限の問題も解消された。(3)重症心身障害児施設整備推進昭和401965の厚生省の実態調査によれば、重症心身障害児(者)の数は、大人2,000人、児童17,300人、合計19,300人とされ、このうち16,500人を施設収容するという計画に基づき施設整備進められ6重症心身障害児の定員は、昭和45年末1970には、国立療養所委託病床2,880床、公法人立の重症心身障害児施設2.922床、合計5,802床となったその後も、国の計画的な整備により国立療養所委託病床及び公法人立の重症心身障害児施設の定員は年々着実に増加し、昭和49年度定員は合計で1万人を超えることとなった7「動く重症児」問題の顕在化児童福祉法において、重症心身障害児施設は重度の精神薄弱及び重度の肢体不自由が重複している児童入所対象とすることが定められたが、重度の肢体不自由とは、身体障害者等級表の1又は2級に該当する場合とされたことから、上述の昭和3819637厚生事務次官通知で定める入所対象児童の基準(重い知的障害があるが身体障害は程度くことができる児童も含み得る基準)に比較して入所対象児の範囲は形式的にはかなり限定されることとなった8このため昭和421967年の児童福祉法一部改正法案の国会審議の際に身体障害は重度でないものの入所対象とされていた児童は法定化後も重症心身障害児施設入所できるように考慮する旨の付帯決議が衆議院、参議院のいずれにおいても採択された(1)「動く重症児」の施設入所の困難化しかしながら、この付帯決議趣旨が徹底されず、国立療養所委託病床中心に「寝たきりの子どもを対象にする」という考え方によ入所受入れが行われがちで島田療育園などで受け入れていた「はうことができる」、「つたえ歩きができる」、「動き回る」というように肢体不自由は重度でないが、実際に目が離せないため世話に非常に手がかかる児童(その少なからずは、癲癇などの精神疾患に罹患しているいわゆる「動く重症児」が重症心身障害児施設の入所対象外になり、制度上も実態としても再び受入れ施設がなくなってしまうという問題が顕在化した9特に、重症心身障害児施設入所後の療育が功を奏し、ようやく「はうことができる」、あるいは、「つたえ歩きができる」ようになったい知的障害のある児童については、重症心身障害児の定義に非該当となってしまうが重症心身障害児施設退所の受け皿となりうる「精神薄弱児施設」はなかった厚生省は、そのような児童についても重症心身障害児施設への入所を認めざるを得ないと弾力的な運用を行う旨を説明していたが、重症心身障害児の定義に非該当となった児童の父母たちは再び対策の谷間に落ちてしまうのではないかという大きな不安を抱くにった10全国守る会としても、「一人ももれなく守る」、「一人ももれない施策」をモットーに重症心身障害児(者)の対策確立を強く訴え、念願の重症心身障害児施設の法定化が実現する一方で、新たな対策の谷間の問題が発生したことは到底看過することができず、昭和4219675月の4回全国大会の要望において動く重症児」についてはその対策や適切な施設がないため家庭で保護されている者も多いとして問題提起し、翌437月の第5回全国大会では「いわゆる動く重症児の対策」の確立を掲げこれを国に強く働きかけていくこととなった11(2)「重度精神薄弱者収容棟」厚生省は、「動く重症児」問題に対応するため重症心身障害児施設の入所対象について弾力的な運用を行うこととするとともに昭和43196873日付けで厚生事務次官通知「精神薄弱者更生施設における重度精神薄弱者の処遇について」を発出し、「重度精神薄弱者収容棟」を「精神薄弱者更生施設」に付設できることとした12しかしながら、これらの通知に示された職員配置と施設設備の基準では「動く重症児」への対応は困難であったため、有効な対応策とはならず、むしろ、重知的障害のあ人たち「重度精神薄弱者収容棟」の対象で、施設本体は比較的軽度の者を受け入れるという傾向さえ見られた13(3)中央児童福祉審議会意見具申昭和4419696月、中央児童福祉審議会の中に「重症心身障害児対策特別部会」設けられ、「動く重症児」に対する療育、施設体系と既存制度の弾力的な運営等の対策上の諸問題について審議が進められ、昭和4519701216、中央児童福祉審議会から意見具申が行われた。その意見具申においては「動く重症児」とは(1)精神薄弱であって著しい異常行動を有するもの、(2)精神薄弱以外の精神障害であって著しい異常行動を有するもの」で、「いずれも身体障害を伴うものを含む」として、(1)該当するものについては、重度精神薄弱児収容」において、また、これに肢体不自由を伴うものについては、重症心身障害児施設において、特に精神医療についての機能の充実により、医療と保護指導を図るものとし、(2)該当するものについては、小児精神病院において治療を行う必要があるとされた14中央児童福祉審議会の意見具申は出されたものの、「動く重症児」問題の解決のための有効な手立てを見出すことはできず、全国守る会」は昭和44年以降もその要望書で「動く重症児対策の確立」を毎年掲げかざるを得なかった。本項で述べた「全国重症心身障害児(者)を守る会」の設立の経緯については、主として「両親の集い」114号による(「両親の集い」1965, no. 114: 14-17)。「重症心身障害児」という名称を用いるに至った経緯について、「両親の集い」に次のような記述がある(「両親の集い」1976, no. 237: 28)。「・・・昭和3210月・・・この時は重症欠陥児と称していました。この後336月に開かれた東京都社会福祉協議会の第1回重症欠陥児対策委員会で出席委員10名は協議して、このまちまちに使われている名称を統一し、重症心身障害児としました。」「全国守る会」の北浦雅子は、昭和531978年の会長就任にあたって、「全国守る会」の設立に至った経緯や当時の親の心情を次のように述べている(「両親の集い」1978, no. 270: 14-15)。「・・・親の会を作ろうと決心したときは、すでに全日本精神薄弱者育成会や全国肢体不自由児父母の会という親の会が大変活躍しておられました。私も両方の会にはいっていましたが、精神薄弱と肢体不自由を合わせもった重症児の問題はいつも出てこないのです。・・・39年当時の社会の考え方は、社会復帰できない人に対してはカネを使う必要はないということでした。つまり、対策が精薄にしろ肢体不自由にしろいつも障害程度の軽いほうから行なわれているわけです。ですからいつまでたっても重症児はいつも砂に埋もれてしまうのです。あなたのお子さんのような方が社会に何の貢献をしますか、何の役に立ちますか。こうした言葉を何回も聞かされました。・・・この子どもたちだけが生きる権利がないということはないでしょう。この子どもたちはいまの社会福祉の壁を突き破る役目があるのだ。だからどうか守ってください。というのが39年の発会当時の私たちの叫びでした。それを報道関係の方々がほんとうに一生懸命になって、社会に訴えて応援してくださいました。・・・」国立結核療養所の病床利用率が低下の一途をたどる状況に対応するため、昭和3510月に「国立療養所再編計画」が策定され、昭和36年度から具体的に実施された。その一環として、昭和39年度に、重症心身障害児の病床に先行して、進行性筋萎縮症による肢体不自由児を受け入れるための病床が、8ヵ所の国立療養所に100床整備された(厚生省50年史」1988: 1050)。平成216月、「全国守る会」北浦雅子会長に面談した際に、当時の状況について確認させていただいたことによる。当時の渥美厚生省児童家庭局長は、国立、公法人立の重症心身障害児施設の整備計画について、次のように説明した(「両親の集い」1968, no. 147: 12-16)。「・・・都道府県を通じての調査では、重度精薄と重度肢体不自由が重複している方の中で、施設入所が必要な方は16,500名と推定されています。そこで43から49年度までの7年間に、施設に全員収容を打ち出し、来年331日までに約4,200床増床の目途をつけたのです。以後44年から49年までに残りの全員を収容するベッドを、民間国立併行してつくっていく考えです。・・・国立重症児施設に設置し、49年度までに約1万ベッドにする予定です。」重症心身障害児の施設の定員の年度推移国立療養所   公法人立   合計昭和41年度    480床      589   1,06942 1,040 1,071 2,11143 1,640 1,853 3,49344 1,920 2,343 4,26345 2,880 2,922 5,80246 3,760 3,309 7,06947 4,640 3,491 8,13148 5,280 4,067 9,34749 6,320 4,229 10,54950 7,520 4,359 11,879重症心身障害児に関する児童福祉法の規定を簡便に示したものとして、大島一良が作成した「大島の分類」がある。この分類では、IQ(知能指数)を縦の軸として020、~35、~50、~70、~805区分し、横の軸を、「寝たきり」、「すわれる」、「歩行障害」、「歩ける」、「走れる」と5区分することにより25のます目からなるマトリックスを作成し、縦軸の「020」と「~35」、横軸の「寝たきり」、「すわれる」の4つのます目に該当する場合を重症心身障害児としている。島田療育園における「動く重障児」の実態については、小林提樹医師が「両親の集い」で次のように分析している(「両親の集い」1971, no.179: 14-17)。「島田療育園における181名の41年度における入園児を再調査してみると、・・重障児定義に基づく重障児は125名でだいたい70%を占めており、動く重障児に入る発達をもっているものが10名、・・・年次が進むに従って重障児にも発達するもののあるのは当然であるが、その後の変化にはきわめて顕著なものが生まれてきている。すなわち、3年余の期間中に重障児は55.2%に減り、動く重障児に相当するものは41.6%に増加している。これは、収容児の障害によっても、特に奇形児などでは当然見られる自然発達ではあるが、療育の向上によっても、特に年ごとに介護職員が増加しているので、当然進歩発達してきて、このような変化が見られたとも考えられる。・・・446月の時点において、収容児181名中その3分の161名はすでに重障児の域を脱しているばかりか、その異常行動のために介護上まことに困難な問題点を提供しているということなのである。そして、同じ嘆きにぶつかっているびわこ学園でも、だいたい同じような状況にある。」当時の渥美児童家庭局長は「全国守る会」の講演で、弾力的な運用について次のように説明した(「両親の集い」1967, no.134: 14)。「重症心身障害児施設の基準にぴったりとはまらない方も、これは当分の間は重症心身障害児施設に収容せざるを得ない、収容したい、と私は考えているわけでございます。児童福祉法の改正法の適用を受ける子どもさんに対しては、じゅうぶんな考慮の下に弾力的な取り扱いをしなければならないと思っています。」全国守る会の昭和43年度の第5回全国大会の要望書に次のように掲げられている(「両親の集い」1968, no.147: 2-5)。「二、いわゆる動く重症児の対策を確立推進されたい ・・・肢体不自由は軽度であるが、重度の精薄で、その上てんかんや異常行動、自閉症的傾向を併せもつという、いわゆる『動く重症児』に対する具体的な施策は依然として取り残されたままであります。動けるけれどもその動きは正常でなく自制できず、介護しにくいため、この子たちの行動には常に危険が伴っています。したがって、この子たちの療育は家庭においても現在の施設でも非常に困難な状況であります。」昭和42年の「精神薄弱者福祉法」の一部改正により、15歳以上の知的障害のある児童について児童相談所長から「精神薄弱者援護施設」に入所させることが適当である旨の通知があった場合は、18歳未満であっても「精神薄弱者援護施設」に入所させることができる規定が設けられた。また、「重度精神薄弱者収容棟」の対象者については、児童家庭局長通知「重度精神薄弱者収容棟の整備及び運営について」(昭和4373日)において、「知能指数がおおむね35以下(肢体不自由、盲、ろうあ等の障害を有する者については50以下)と判定された精神薄弱者であって、次のいずれかに該当するもの」とされた。日常生活における基本的な動作(食事、排泄、入浴、洗面、着脱衣等)が困難であって、個別的指導及び介助を必要とする者失禁、異食、興奮、多寡動その他の問題行為を有し、常時注意と指導を必要とする者「重度精神薄弱児(者)重度棟」の整備が進んでも、重症心身障害児施設に入所していた「動く重症児」の受け皿として機能しなかった事情について、岡崎秀彦(びわこ学園長)は「手をつなぐ親たち」で次のように説明している(「手をつなぐ親たち」1976, no.250: 28-29)。「重症児施設に入っていた『重度児』は、・・・重度棟の体制では適切な処遇が無理だと思えるほど重度で、さまざまの合併症をもった人が多く、重症児施設に措置されたわけですから、制度を変えただけで措置変更を強行すれば大変な混乱が予想されました。要するに、そういう人達の処遇は、制度上重度棟の対象であるが、現実には重度棟の人員配置と、医療・看護体制が皆無に近いということで、それが整うまでは重症児施設に入所していてよろしいことになったいきさつがあります。」上記昭和45年の意見具申に先立って、44928日付け厚生事務次官通知「自閉症児の療育事業について」が都道府県知事宛に発出された。自閉症児については、診断治療方法等が確立されていなかったために長い間適切な医療や処遇が受けられない状況にあった。このため、昭和422月に「自閉症児親の会全国協議会」が発足し、行政、児童精神科医療の専門家等への働きかけを行い、同年12月、中央児童福祉審議会から、情緒障害児短期治療施設とは別の施設体系を考慮すべき旨の意見具申が出された。これを受け、厚生省は、昭和43年度にモデル的に東京都、大阪府、三重県の公立病院に自閉症児施設を整備することとし、翌44年度からは、これら自閉症児施設における療育に要する費用に対して助成を行うこととして厚生事務次官通知を発出したものである(「厚生省50年史」1988: 1232)。なお、自閉症児施設は、昭和553月の「児童福祉施設最低基準」の改正により、「精神薄弱児施設」の一類型として、位置付けられ、病院に収容することを要するものを入所させる第一種自閉症児施設(いわゆる医療型)と、病院に収容することを要しないものを入所させる第二種自閉症児施設(いわゆる福祉型)に区分された。第3章 国立コロニーの開設1 コロニー懇談会厚生省において、昭和30年代半ばには、コロニー建設を課題の一つと位置づけていたが、アメリカでは昭和37196225日の米国ケネディ大統領による「精神病および精神遅滞に関する教書」や同年10月に出された「大統領精神遅滞と闘う国家的活動計画」により大規模施設が厳しく批判されていたこと、また、イギリスで精神医療領域の改革から生まれてきたコミュニティ・ケア思想が強調されるようになってきたことなどを勘案して、コロニー建設について慎重に検討進めていた(1)政策課題としてのコロニー建設保護者や施設関係者から児童、成人に区別されている「精神薄弱福祉対策」を一元化し、一貫した対策確立してほしいとの要望がかねてから出されていたが、厚生省はその第一段階として昭和4019657月から従来社会局が所管していた成人対策を児童家庭局に移管することにより「精神薄弱福祉行政」の一元化を図った。その検討の過程で、施設体系についても検討が加えられ、昭和391964621日に開催された「全日本精神薄弱者育成会」の評議委員会において、黒木児童家庭局長は「重症心身障害児施設経営の主体は国か民間かでいろいろ考え・・・民間施設は経営者いかんにかかり、それも代が変ると経営の根本がぐらつく心配が起きるので40年度は国立の秩父学園にさらに重症心身障害児童及び一般精薄施設、職業訓練授産所等を逐次増設し日本における施設体系のモデルすなわちコロニーをつくりたいと考えている」と、コロニー建設について言及した(「手をつなぐ親たち」1964, no.100: 304019652月の全国児童福祉主管課長会議において竹下児童家庭局長は重症心身障害児対策に関して「単独に重症心身障害児を扱うことは児童のためにも職員のためにも適当でないので総合施設、すなわち児童・成人施設、職業訓練施設・コロニー等が必要となるので、今後この対策に乗り出される場合には広大な地域を確保してほしい」と指示した(「手をつなぐ親たち」1965, no.108: 30同じ時期(昭和401月)に内閣総理大臣の私的諮問機関として社会開発懇談会が設置されたが、同年624日に出された中間報告の中で「一般の社会で生活していくことの困難な精神薄弱者については、児童を含めて、環境のよい土地にコロニーを建設し、能力に応じて生産活動に従事させることが必要である。そのためには国有地・公有地を優先的にまわすなど土地の確保をはかるべきである。」と明記され2, 3同年716日に開催された第58回児童福祉審議会総会において鈴木善幸厚生大臣が、社会復帰能力の向上に努めるとともに働きながら一生を暮らせるコロニーを国が建設する考えで昭和41年度はその調査研究を行いたい旨を発言するなど、具体的な政策課題としてコロニー建設言及されるようになった。の時期政府関係者のコロニーの概念は必ずしも一致していないものの概して、障害の重い人も軽い人も、また、児童も成人も対象とし、保護、更生、職業訓練などの総合的な機能を備えた施設、あるいは、施設の集合体を想定したものであり、社会復帰をめざした職業訓練や庇護的授産が重要な機能の一つとして位置づけられていたと考えられるまた、重症心身障害児対策が重要課題としてクローズアップされていた時期ではあったが、コロニーを専ら重度・重複の障害のある人を対象とする施設としなかったのは、島田療育園など既存の重症心身障害児施設がそうであったように、障害の重い人ばかりを対象とする施設では職員の負担が過重になって職員確保が困難であったこと、入所している本人にとっても年齢や障害の変化などに応じてコロニー内部で移動できることが望ましいことなど考慮されたと考えられる(「精神薄弱者問題白書」1969: 17; 「国立コロニーのぞみの園十年誌」1981: 4(2)重症心身障害児対策推進の機運の高まり既に見たように、「全国守る会」が重症心身障害児の対策確立のために純粋で国民の心を動かすような訴えを続けていく一連の流れの中で、新聞、雑誌、ラジオ、テレビなどマスコミが重い障害のある児童をめぐる問題を取り上げ、キャンペーンが繰り広げられた4また、伴淳三郎、森繁久彌、坂本九らの芸能人、秋山ちえ子らの評論家、水上勉らの文筆家など参加した募金活動が「あゆみの箱」運動に発展するなど、「全国守る会」の訴えと運動は社会的問題として多くの人々の共感を呼ぶこととなり、重症心身障害児対策推進の機運は高まっていった(「わが国精神薄弱施設体系の形成過程」1982: 147「全国守る会」は、昭和4019653月の月例会で、西ドイツの「ベーテルの家」からハンナ・ヘンシェル女史を招き、「ベーテルの家」についての講演会を開催した「こうしたヘンシェルさんのお話は、わたくしたちにとってはまるで天国の話をきくようでした。うらやましくもあり、日本にそれがないことは残念でたまりませんでした。・・・コロニーは訓練の町であるとともに、真の愛情に徹した精神の町でもありました。ヘンシェルさんの講演をきいてからわたくしたちは、こんなコロニーを日本にもほしいと考えるようになった(北浦雅子悲しみと愛と救いと」1966: 184-189しかしながら、「全国守る会」は「法制化の問題、年齢制限の撤廃など、重症児対策の初歩的な段階を要望しているところ」であり、この時点では「『ベーテル』のような総合施設など遠い夢のように思えた」のも当然であった(「両親の集い」1968, no. 140: 185(3)総理官邸における官房長官との懇談会昭和401965626「全国守る会」の第2回全国大会が開催され、佐藤総理大臣の代理で挨拶に立った橋本登美三郎官房長官は、涙ながらに国として重症心身障害児対策の確立を約束した6さらに、全国大会の熱気がさめやらない同年71日、同長官は、総理官邸に重症心身障害児関係者を招いて懇談会を開催し、「守る会の大会で皆さんの切実な訴えをきき、大変感激した。今日はさらに問題点を深く追求し、ぜひ来年度の予算に反映させたい。」と挨拶した。この懇談会では、厚生省から、重症心身障害児施設を国立として数か所開設するとともに、コロニーについても調査をして設立準備をする旨の報告がなされた。秋山ちえ子自ら視察した西ドイツのベーテルについて説明した後、「重度から軽度まで集めた総合的なコロニーがぜひほしい」と要望し、水上勉は「もう調査費などといっている段階ではない。具体的に国立の施設を実現して貰いたい」と要望した(「国立コロニーのぞみの園十年誌」1981: 4; 「両親の集い」1967, no.140: 24-25; 「両親の集い」1968, no.146: 187(4)コロニー懇談会の設置上述のように、同年716日に開催された第58回児童福祉審議会総会において鈴木善幸厚生大臣昭和41年度その調査研究を行いたい旨を発言したが、同年94日、橋本登美三郎官房長官は厚生省に「重症心身障害児対策を強力に進めること」、「障害児の父母たちの間で、実現が熱望されている障害児の村『コロニー』については、来年度を待たず、ただちに建設準備の研究を始めること」を指示した。この指示を受け、厚生大臣の私的諮問機関としてコロニー懇談会が急遽設けられ、国が設置するコロニーの性格、規模、対象者、既存の施設との関連性等について検討することとなった8コロニー懇談会は、105日に第1回会合を開催し以降4回開催された。欧米では大規模の障害者施設に対する批判、反省が高まっているという事情を踏まえつつ、我が国のコロニーの理念や機能をどのように位置づけるかについて種々の意見が出されたが、従来の施設体系にはなかった終生保護の施設を作る、また、知的障害ある人たち、肢体不自由のある人たち、重症心身障害のある人たちなどが一緒に居住して社会生活を営むことができる一つの生活共同体を作るという方向で意見が集約され、昭和4012月に意見書がとりまとめられた9, 10(5)コロニー懇談会意見書コロニー懇談会の意見書において提案されているコロニーの概要については「はじめに」で一部紹介したがここで改めて紹介する「一 趣旨」で、「最近、重症心身障害児に対する施設の充実が強く叫ばれ、その一つとして、コロニー建設の必要性が強調されるにいたった」と、コロニーは重症心身障害者などを「長期間収容し、あるいは居住させて、そこで社会生活を営ましめる生活共同体としての総合施策であり、かつ、常に一般社会との有機的な関連の中で育成されるべきものである」としている。次に、コロニーの機能を「基本的には一つの生活共同体である」とし、「障害の程度が重いため長期間医療または介護を必要とする者や、一般社会への復帰は困難であるがある程度の作業能力を期待できるものを、健康な人々(職員、ボランティア等)とともに一定の地域内に収容し又は居住させて、保護、治療、訓練等を行うとともに、障害の程度に応じ生産活動と日常生活を営むようにする社会である」としている。これを構成する施設については、「介護を主とする施設、生活指導、生産指導を主とする施設のほか、医療機関、教育機関等各般の施設が設置されるが「単なる施設の集合体ではなく、各施設が有機的に関連づけられて、既存の施設と異なる新しい全体として一つの総合施設を構成する。」とし入所対象者については、重症心身障害者のほか、中度、軽度の精神薄弱者身体障害者で、コロニーにおいて保護を受けながら、生産または奉仕活動に従事することが適当と認められる者であって、長期間収容保護を必要とする者」としている。また、コロニーの規模は、「1単位300500名とし、数単位をもって1コロニーを構成する」こととし、「コロニーの一応の規模としては、1,500名~2,000名程度」のものになるとしている。なお、「コロニーは、国、地方公共団体あるいは民間によって、少なくとも各ブロックに1カ所程度設けられることが望ましい」と、本意見書を踏まえて地方公共団体においてもコロニー建設が進められることへの期待も込められてい2 国立コロニーの建設 昭和4119663月、鈴木善幸厚生大臣は、福田赳夫大蔵大臣、坂田英一農林大臣、橋本登美三郎内閣官房長官と最終協議の結果、建設予定地を群馬県高崎市附町(通称:観音山)に決定た。その理由として、「群馬、静岡、埼玉、栃木の各県内の14カ所が候補」に上ったが、「居住条件がよく、近くに群馬大学医学部がありその協力が得られる群馬県は手工業が盛ん、収容者の社会復帰に便利であることなどがあげられた(昭和41327日朝日新聞記事)11(1)国立心身障害者コロニー設置計画昭和417月には、委員36名からなる「コロニー建設推進懇談会」(会長は久留島秀三郎児童福祉審議会委員長で、コロニー懇談会の委員の大半も参加)が厚生省に設置され、同年12国立心身障害者コロニー設置計画」が決定された(「わが国精神薄弱施設体系の形成過程」1982: 164同計画では、国立コロニーに居住する障害者総数は約1,500人で、その構成は知的障害700人(うちIQ35程度以下の重度者400人であって、常時看護、介護、監護が必要なもの100人)、肢体不自由者700人(うち身体障害等級12級の重度者400人であって常時就床のもの100人)、重症心身障害者100人とされていた。昭和43196856日に起工式が行われ、昭和45年度から入所者の一部受入を予定して建設工事が年次計画で進められたこの間、4310月の第4回コロニー建設推進懇談会では、厚生省から財政状況、建設工事の遅れ等から、当初の定員1,500の規模を縮小し、昭和45年度後半に650名(知的障害者275名、肢体不自由者275名、重度知的障害者100で開所し、以後引き続いて年次計画による入所を行いたいとの案が示され、やむを得ないものとして了承された。昭和4419693月の第5回コロニー建設推進懇談会において行われた居住施設についての説明では、精神薄弱関係棟275名、肢体不自由関係棟275名と、さらに規模が縮小され入所対象者については、同年11月、一次開所の時点においては、①重度知的障害者及び②身体障害を併せもつ知的障害者とすることに決定され、肢体不自由者は当面対象外とされた。このように入所対象者について、コロニー懇談会の意見書にあった重症心身障害児(者)と肢体不自由者が除外さ重い知的障害のある人たちなどとされた理由は、次のようなものであったと考えられる(「国立コロニーのぞみの園十年誌」1981: 6-7軽度・中度の人たちは特殊教育の普及、「精神薄弱者施設」の充実により問題が少なく、重度の「精神薄弱者施設」について社会的な要請が強かったこと身体障害者については、社会復帰を前提としてリハビリテーションを主体とし、長期の保護指導を必要とする知的障害者と一緒に入所させる例は、先進国にもその例が少ないこと重症心身障害児については、昭和42年以降、国において国立療養所に付設する施策が進み、他方、民間の施設についての財政的援助の強化により、次第に拡充されてきたこと(2)心身障害者福祉協会の設立昭和4519703月の第6回コロニー建設推進懇談会では、国立コロニーの経営主体はその運営に弾力性を必要とするので特殊法人に委託すること、特殊法人の発足は4619711月、入所開始は同年4月とし、入所定員は550名とすることが了承された。経営主体を特殊法人としたコロニー懇談会意見書で弾力性を発揮するために法人に委託することが望ましいとされていることコロニー建設を国民運動として行うことが望ましいとして各界の代表を網らして建設推進懇談会を設置したこと、重知的障害のある人たちの保護指導に当たる職員の処遇等を考慮しことなどよる(「国立コロニーのぞみの園十年誌」1981: 6昭和453月、特殊法人設立のための「心身障害者福祉協会法案」が国会に提出され、同年54日に公布施行され、翌461月に特殊法人「心身障害者福祉協会」が設立された。心身障害者福祉協会法第1条(目的)に、「心身障害者福祉協会は、独立自活の困難な心身障害者が必要な保護及び指導の下における社会生活を営むことができる総合的な福祉施設を設置して、これを適切に運営し、もって心身障害者の福祉の向上を図ることを目的とする。」とあるように、同協会が設置する施設は、その設置の経緯から将来的には肢体不自由者等も受け入れることも想定されたので、法人の名称を「心身障害者福祉協会」としたと考えられる実際には、施設名の一部である「国立コロニー」が通称として関係者に定着し、法人の名称まで言及されることはあまりなかった(3)総合的に整備された福祉施設心身障害者福祉協会が設置運営する福祉施設である国立コロニーついては、心身障害者福祉協会法第17業務)において、「精神薄弱の程度が著しい等のため、独立自活の困難な心身障害者を必要な保護及び指導の下に生活させるために総合的に整備された福祉施設」規定された。当該福祉施設について、心身障害者福祉協会法案の提案理由説明では、独立活の困難な心身障害者のため保護、指導、治療、訓練等各種の機能が有機的に整備され、これらの障害そこにおいて安心して生活を送れる一つの地域社会ともいうべき総合施設」と表現しているが、「一つの地域社会」といえるかについては議論があるとしても「独立自活の困難な心身障害者」を専らの対象としていること、「必要な保護及び指導の下に生活させる」ことなどの点で、精神薄弱者福祉法に規定する精神薄弱者援護施設とは異なっており特別法律(心身障害者福祉協会法)に基づき設置された、従来にない機能を有する特別の福祉施設という位置付けであった12また、上述したように財政状況、建設工事の遅れ等から入所定員を550名として開所することとしたが、当初計画した1,500人規模への拡張については、物理的に困難なことではないが、保護指導に当たる専門職員の確保、国の助成による地方コロニー建設促進などの問題もあり、しばらく運営の経過と実績を見た上で第2次計画を考えるべきと、厚生省は将来の規模拡大に含みを持たせていた(昭和45414日の参議院社会労働委員会における内田常雄厚生大臣の答弁)3 開設初期における国立コロニーの運営13国立コロニーの開設に当たり、入所の対象者として、まず、国立秩父学園の入所者のうち18歳以上のもの49名を受け入れることとする一方、昭和461971226日付け厚生省児童家庭局長通知により都道府県及び政令指定都市に対して入所人員の割り当てを行い、入所委託内議書送付を依頼した。同通知では、入所対象者は、年齢15歳以上の知的障害のある者で、次のいずれかに該当するものとされた。精神薄弱の程度が著しいため独立自活が困難な者で、必要な保護及び指導の下に社会生活をさせることが必要と認められる者身体障害を併合しているため一般社会においては適応が著しく困難と認められるもの昭和46197141日、国立コロニー当初の入所定員550名として開所し全国から順次受け入れを行い4719723月末入所者数は479名、同年7月末にはほぼ定員に近い541名に達した。(1)入所者処遇の基本方針  開所当初、入所者処遇の基本方針については、「入所者に対し適切な保護指導、治療及び訓練を加え、その心身の障害を軽減または除去し、さらに心身の機能を発達させ、社会生活に適応できるようにつとめる。このようにして、入所者を社会復帰させるか、またはコロニー内で適切に保護することによって、それらの人々の福祉をはかる。」とした。この基本方針の下、入所者は、居住施設では25人を単位とするファミリーと呼称された生活集団(全体で22ファミリー)のいずれかに属し、日中は、居住施設から治療訓練棟、作業治療棟等に日々通うこととなった。治療訓練棟、作業治療棟等では、各入所者の有する能力を最大限に発揮できるようにすることを目指して、障害特性、能力等に応じてクラス分けが行われ、週の時間割表に従った治療訓練が行われることとなった。(2)治療訓練の実践中活動担当の組織として、治療訓練部と作業治療部が設けられた。治療訓練部は、「どのように障害の重い人に対しても、その障害を軽減し、機能の発達をうながし社会適応に努めることを目指し、治療教育の研究開発とその実施」を担当した。作業治療部は、「心身の障害を除去するか、または軽減し、あわせて心身の各種の機能を発達させる(退化を防ぐことを含めて)ことを目的とする治療作業と、社会生活をするために必要な作業技術や作業能力を習得させたり、勤労習慣をつけさせたり、又は共同作業のなかで好ましい人間関係の持ち方を学ばせる授産作業」を担当した。定員550名のうち、相対的に障害の重い入所者を治療訓練部(定員220名)が担当して、治療訓練棟(昭和47年度末に竣工のため、それまでは作業治療棟を共用)等において、週の時間割表に従い、精神機能訓練、遊戯治療、音楽治療、感覚機能訓練、理学療法、言語治療、社会生活教育等を行った。それ以外の入所者を作業治療部(定員330名)が担当して、作業治療棟等において、週の時間割表に従い、造形作業、手芸作業、農芸作業等った(3)入所者処遇の実際一般に障害者施設の開設当初は、入所者の受け入れについては時間をかけ、入所した者が安定してから次の入所者を受け入れることが通例であったが、国立コロニーの場合わずか1年間ほどで500人以上もの受け入れを行ったことは、常識をはるかに超えるものであった。しかも、その入所者の半数以上は施設での経験はなく、施設経験のある者でも環境の変化によって不安定な状態になるのであるから、無断外出や複合的な問題行動などへの対応は、容易なことではなかった。入所者をどのようにして新しい環境に適応させるかということが緊急課題であって、年間指導目標に基づく年間あるいは月単位などの指導計画を立てても、計画に従って指導を進めるというより、その時、その場に応じて、よいと思う方法で指導にあたったというのが実情であった。そもそも重い知的障害のある人たちに対する治療訓練は未開拓の分野であったため参考となる資料の入手が困難、担当職員が治療訓練の理論と方法論を理解することが困難という問題点のほか、治療訓練担当の専任職員が不足するとともに、専任職員の補助をする居住区の職員は負担が重なり片手間になりがちなどにより、治療訓練の開始時間が遅れることが多く、少なからずの欠席者が見られ、また、治療訓練内容も無計画になりがちになるなどの実情にあった。当初は高い目標を掲げ、国立コロニーの入所者処遇の特色として治療訓練に取り組んだが、実際は新しい環境に適応させることで精一杯で、企図した治療訓練の実践は困難であった。(4)先駆的施設としての困難な課題このように居住施設と日中の治療訓練のための施設を分離し、当時としては最新の知見に基づき入所者全員を対象として日々治療訓練を実践しようとしていたという点では確かに先駆的な施設であった他方、コロニー懇談会の意見書に照らしてみると、規模大幅縮小、入所者を知的障害のある者に限定という点で大きく変更されたことはさておきコロニー懇談会委員が思いを込めてまとめあげた「一つの生活共同体」、「既存施設と異なる新しい全体として一つの総合施設」という施設のありよう開設短期間実現すること期待しがたく所与の施設設備専門職員の体制の下、施設の運営面、入所者の処遇面で試行錯誤を重ねながら年月をかけて地道にこれらのありようを作り上げていくという困難な課題に取り組むこととなったその課題の困難さを誰よりも自覚していた初代理事長の菅修は、昭和461971430国立コロニーのぞみの園開園式理事長挨拶の中で、「私共がこれからお世話しようとする障害者は、精神薄弱の程度が重いか、精神薄弱の上に、肢体不自由やその他の合併症を持ったいずれも従来誰もがその取り扱いを避けて来た人達ばかりであり・・・そのような人達を何百人も集めて、保護指導、治療及び訓練し、社会復帰をはかることは、決して生やさしいことではありません。しかし、私共はあえてその難しい仕事にとりくんで、あらゆる手段を講じて、それらの人達を治療、訓練して、その障害を軽減し、残存機能を発達させ、社会復帰を可能ならしめるように努力する覚悟でおります。また、もし社会復帰がどうしても成功しない場合は、障害を持っていても人間らしい生活が送れるよう、その生活全般にわたって心を配るつもりであります。」と決意を表した。4 重症心身障害児(者)対策と国立コロニー2-1、第3-1みたように、「全国守る会」は、昭和391964年の設立当初から、重症心身障害児(者)について抜本的な対策を講じるため「乳児から老人に至る終生を一貫した総合的な特別な法律」を制定すること、重症心身障害児(者)に対して専門的な療育を行う施設を国の責任により全国各地に設置することなどの対策確立を強く要望していたが、一方、コロニー建設の要望は昭和40196571の総理官邸における懇談会で急速に浮かび上がったものであった。したがって、その前月に開催された「全国守る会」の全国大会では「コロニー建設」は要望事項とされていなかったが、翌41196679に開催された第3回全国大会では、「国立重症心身障害児(者)施設の増設」に加えて、初めて「コロニー建設の推進」を要望事項として取り上げた。「コロニー建設計画の具体策が着々と進められており・・・全国の心身障害児(者)の親は、この計画にひたすら夢を託し、一日も早くその実現を待ち望んでおり・・・あくまでも法の施策が最も立ちおくれている重症心身障害児(者)に対し優先して収容すべく計画を推進されるよう、重ねてここに要望いたします。」との説明が付され(1)一人ももれなく守るためのコロニー建設22でみたように、昭和41年度予算から国立療養所委託病床の整備が始まり、また、児童福祉法改正による重症心身障害児施設の法定化の検討も進みつつあったが、「全国守る会」は、国立コロニーの建設について、従来施設に入所できなかった重い障害のある人たちを一人もれなく受け入れる施設、重症心身障害児をめぐる諸問題を一挙に解決する有力な方策となる施設、遠大な構想の下に国家的見地から建設される施設、さらには、日本の福祉政策のシンボルとなる施設という願いをこめて、大きな期待を寄せていた(「両親の集い」1966, no.120: 4; 「両親の集い」1967, no.129: 3; 「両親の集い」1968, no.146: 19というのも、国立療養所委託病床及び重症心身障害児施設の整備が推進されていくとしても、入所対象者に関する基準が設定されることにより、基準非該当のため入所できないが出てくるのは避けられないことから、「一人ももれなく守る」という理念を真に実現するためには、コロニー建設が不可欠であると考えていたからである14このことを、小林提樹は「あらゆる施設、あらゆる家庭で困っている者は全部引き受けてやる一番最終的なものであってほしい」と端的に表現している(「両親の集い」1966, no. 127: 4(2)国立コロニーによる「動く重症児」の受入れコロニー懇談会の意見書が提出されてから実際の開設までに5年以上の年月を要し、その間に国立コロニーの規模は諸般の事情により大幅に縮小され、かつ、22たように、国立療養所委託病床の整備が計画的に進められ、また、民間施設に対する財政的援助次第に拡充されてその整備も進みつつあったことなど理由として入所対象者から重症心身障害児(除外されてしまった他方、23たようにいわゆる「動く重症児」、国立療養所委託病床、公法人立の重症心身障害児施設での受入が困難という問題が年々深刻化し、その対策に関係者が頭を悩ますという事態が生じていた。このため、「全国守る会」は昭和43から毎年「動く重症児対策推進」を要望事項に掲げることとなった。動く重症児対策について有効な施策が講じられない状況が続く中で、昭和4619714月、国立コロニーが開設されたが、国立コロニーの昭和47年度末入所者538障害の状況については、知能指数30未満の者(測定不能者を含む。)83%、視聴覚等の感覚器官に障害のある者は22%、言語障害の伴う者54%、肢体不自由を伴う者25となって問題行動の状況については、異食24、浮浪26、暴行20、破衣38、自傷37、弄便14となっていなど、重度者、重複障害者、問題行動があるため一般社会での適応が困難な者などを中心に受け入れていたことが認められる(「国立コロニーのぞみの園年報」1974, 1: 37-45 また、入所者の生育歴を見ると、出生後ずっと在宅のまま養育、介護を受けていた者57%を占めていたことから、施設入所を希望していながら重症心身障害児(者)対策の谷間にあったために入所できなかったいわゆる動く重症児」がようやく適切な施設に入所できたというケースも少なからず含まれていたはずであり、「動く重症児」への対策の一つとして国立コロニーが一定の役割を果たしたいうことができる現に両親の集い」に「高崎の国立コロニーは4月開所以来3ヵ月を経過しました。当初49人だった入所児も7月末現在約300名となり、本会会員の中からも従来の精薄者対策からもれていた重度の精薄者がぼつぼつ入所しているようです。7月には東京の品川、杉並、目黒などの会員が入所しましたが、子どもたちは意外と早く集団生活になれたとのことですと、全国守る会」の会員の子どもで対策の谷間に落ちていた者が国立コロニーに入所したケースに関して好意的な記事が掲載され(「両親の集い」1971, no.183: 5(3)国立コロニー増設の要望「一人ももれなく守る」という強い思いを込めて国立コロニー建設を働きかけ、ようやく実現する運びとなり、その設置計画にも入所対象者として重症心身障害児(者)が当然に明記されていた5年の年月が経過する間に入所対象から除外された。「全国守る会」にとっては、国立コロニーがいわゆる「動く重症児」対策に一定の役割を果たしたことは歓迎する一方、重症心身障害児(者)が対象外になったことは容易に納得できることではなかった。国立コロニーの開所にあたって、「精神薄弱者福祉法で運営されるということで、重症児がはずされるのではないかと、私たちは心から喜べない現状です」と「両親の集い」の「あとがきに記し昭和467月の第8回全国大会では要望事項として、「重症心身障害者は当初の入所対象から除外されています。国立コロニー計画発足初期の趣旨に従い、重症心身障害者はもとより、ひろく心身障害者が入所できるよう、増設計画を進めていただくとともに、内容の充実を図ってください。」と、国立コロニーの増設計画を掲げることとなった(「両親の集い」1971, no.181。同大会終了後の研究討論会で評論家俵萌子は厚生省の松下児童家庭局長に対して、「国立コロニー・・・をつくろうというきっかけになったのは重症心身障害児のことが発端だったと私は記憶しています。・・・まっ先に重症心身障害児がはいれたのかと思っていたら、そうではないという話をきいて大変意外に思っております」と問いただした(「両親の集い」1971, no.183: 11-16国として国立コロニーの増設計画にどのように取り組もうとしていたかは必ずしも明らかでないが、国の財政状況、地方コロニーや民間施設の整備状況、大規模収容施設への批判の顕在化等を勘案すれば国立コロニーの規模拡大に着手することは困難な情勢でったまた、重症心身障害児(者)の施設については国立療養所委託病床、公法人立施設ともに整備が進昭和48年度に定員1万床を超える一方、医師、看護婦等の職員の確保困難、あるいは、入所児の年長化による職員の腰痛の発症、これらに起因する定員充足率の低下(空床の増加)という問題が発生していた15このため、「全国守る会」は、昭和40年代後半から50年代にかけて、要望事項として「年長児の受け入れられるベッドの確保、「職員の確保養成及び待遇改善」などを掲げて問題解決に取り組むこととし昭和47年度以降の要望事項として国立コロニーの増設取り上げることはなかった5 地方コロニーの建設都道府県が開設するいわゆる地方コロニーは、国立コロニーの建設計画と前後して構想されるようになり、昭和4619717月の厚生省障害福祉課調査によれば、昭和41から46にかけて都道府県が建設に着手し、又は計画していたものは19にのぼった中でも愛知県と大阪府は、国よりいち早く当面の大きな目標と標榜して取り組みを開始していた16, 17(1)複数施設の連携による総合的な機能これら地方コロニーの目的や機能については統一的な基準はなかったが、従来十分な支援ができなかった重い知的障害のある人たちなどのニーズを満たすために、児童から成人までの一貫した支援をすべく精神薄弱児施及び精神薄弱者施設から構成され、かつ、成人用の施設は更生施設と授産施設の両方を有するものがほとんどであったまた、重知的障害のある人たちの中には、医療的ケアの必要な人も少なくないことから、病院又は有床の診療所を付置するもの、さらに、重症心身障害児施設肢体不自由児施設などを併設するものもあり、いずれも複数施設の有機的な連携により総合的な機能を発揮し、都道府県内における中核施設としての役割を担うことが期待されていた18, 19(2)「精神薄弱者総合援護施設」全国各地で地方コロニーが計画され、整備されていく状況の中で、厚生省は、地方コロニーの役割・機能などをどのように考えるべきかについて中央児童福祉審議会はかった。昭和45197012月、同審議会は「児童福祉に関する当面の推進策について(意見具申)」の中「重度精神薄弱者のための施設の整備」として、「近年、国立心身障害者コロニーの建設に呼応して、地方公共団体においても、いわゆる地方コロニーの建設がなされており、また、民間施設においても、コロニー的なものとして、ある程度の規模、設備をそなえているものが整備されているが、これらの施設を、社会復帰の困難な重度の精神薄弱者を、長期間にわたり収容する施設としての機能を果たしうるように育成していく必要があろう。・・・その整備の基準を早急に明確化するとともに、これに該当するものについては、整備費の補助等適切な予算的な配慮を行う必要がある。と提言した。この意見具申等を踏まえ、厚生事務次官通知「社会福祉施設等施設整備費の国庫負担(補助)について」(昭和47725日)と、厚生省児童家庭局障害福祉課長通知(昭和48313日)により施設整備費国庫補助金の対象として次の条件に該当するものを精神薄弱者総合援護施設として、工事費の基準単価、基準面積等の点で若干優遇することとした20設置主体都道府県であること精神薄弱児施設精神薄弱者更生施設及び精神薄弱者授産施設のうちいずれか2種類の施設を構成単位として含み、精神薄弱者を長期間にわたって収容し、保護・治療・指導・訓練または授産を行うことができる各種施設が総合的に整備されること定員300人以上であること施設内に病院又は診療所を設置すること入所対象者は、原則として15歳以上の知的障害者とし、そのうちおおむね半数以上を重度精神薄弱者収容棟の入所対象者と同一の障害程度と判定された者が占めること(3)国立コロニーと地方コロニー「精神薄弱者総合援護施設」は、国庫補助金制度に設けられた施設概念であり、これを構成する個々の施設については、既存の法令(「精神薄弱者福祉法」、児童福祉法等)に根拠を有するものであった。このため、心身障害者福祉協会法に根拠を有する総合的な福祉施設である国立コロニーとは制度的に異なるものの、複数の種類の施設の組み合わせと、これら施設の運営面での連携協力、創意工夫により、地方コロニーとしての独自性、換言すれば、一般の「精神薄弱者援護施設」との違いを出すことは可能であった。社会復帰の困難な重い知的障害のある人たちを長期にわたり「保護収容する」という機能、入所者の障害の状況、施設における日常的な支援内容等で見れば、国立コロニーの方が全般的に重い障害の人を受入れていたこと33でみたよう国立コロニー開設初期先駆的な治療訓練を試みていたことを除くと、国、地方であまり大きな違いは見すことはできない。むしろ、政策的には国立コロニーと地方コロニー類似の機能を担うものとして設置運営され、国立コロニーは地方コロニーのモデルとなるような運営を目指していたということができる(「手をつなぐ親たち」1970, no.177: 35「精神薄弱者福祉法 解説と運用」の「七 精神薄弱者福祉法の制度と今後の課題」の中で「重症心身障害者のための終身保護施設ないしコロニーの設置も解決を迫られている問題である」と記述されている(「精神薄弱者福祉法 解説と運用」1960)。「社会開発」とは、昭和30年代終わり頃から経済中心の開発方式に替わる計画理念として行政の場に取り入れられるようになったものであり、具体的には、都市・農村・住宅・交通・保健・医療・公衆衛生・社会福祉・教育などの社会面での開発を進めようとするものであり、その目指すところは、直接、人間の能力と福祉の向上にあるとされる理念であった。「愛護」の「座談会 コロニーについて語る」の中で、登丸福寿氏(群馬・はるな郷)は、社会開発懇談会に関して次のように述べている(「愛護」1971, no.162: 22-23)。「・・・ソニーの井深さんと秋山ちえ子さんの二人が佐藤内閣の第一次の時に社会開発懇談会をつくって、民間から権威者を集めて意見を聞くことになった。その中間報告で提唱された『社会で生活していくことの困難な精神薄弱者に対しては、コロニーを建設し、能力に応じ生産活動に従事させることが必要である』(昭和406月)との趣旨で、コロニー懇談会が出来たのです。・・・きっかけは水上勉さんが『拝啓池田総理大臣殿』を中央公論に出したが、あれから心身障害者の問題は政治的に解決しなければならないと云う気分が盛り上がり、社会開発懇談会の中でもとりあげるきっかけをつくったものと思う。」なお、社会開発懇談会中間報告では、コロニーについては「心身の障害者のリハビリテーション」の項目で言及されており、重症心身障害児については、「要保護児童および母子世帯に対する福祉対策」の項目で、施設整備や在宅児童に対する巡回療育指導体制の確立などについて言及されている。昭和40518日から、毎週土曜日、朝日新聞の家庭欄に連載されていた「おんもに出たい」の企画は、「社会から目をそけられ、見放されている重症児(者)の実態と問題点」を、あらゆる角度でクローズアップし続け、全国的な反響を呼びおこした(「両親の集い」1966, no.118: 7)。昭和406月の「全国守る会」第2回全国大会の要望事項にはコロニー建設に関することは掲げられなかったが、同大会と71日の総理官邸における懇談会をきっかけとしてコロニー建設の流れが急速に本格化し、翌年の全国大会の要望事項には「コロニー推進」が掲げられた。「両親の集い」の記事では、「全国守る会」第2回全国大会における橋本登美三郎官房長官挨拶の次のような部分を引用している(「両親の集い」1968, no.146: 18)。「みなさんの悲しみを悲しみとし、不幸を不幸として受けとるだけの愛情が、われわれ政治家になかったのではないだろうか。・・・守る会の仕事に対して政府は最善の道を講じ、みなさんの期待に応える・・・」「両親の集い」では、昭和4071日の総理官邸での懇談会の様子を次のように記述している(「両親の集い」1967, no.140: 24-25)。「水上勉氏から・・・『もう調査費などといっている場合ではない。具体的に国立の施設を実現してもらいたい。』・・・秋山ちえ子さんは『総合的なコロニーがほしい。民間人も協力してお金を集めます。』伴淳三郎さんも『芸能人はもとより、皆さんにお金をお願いしてお金を集めましょう。』とコロニー建設の話が進みました。」なお、この会の出席者は、水上勉、伴淳三郎、森重久彌、秋山ちえ子、小林提樹、草野熊吉、「全国守る会」6人、大蔵省、厚生省の担当官などである(「両親の集い」1978, no.270: 15)。コロニー懇談会の委員は、菅修(国立秩父学園長)、糸賀一雄(近江学園長)、登丸福寿(みのわ育成園長)、仲野好雄(全日本精神薄弱者育成会専務理事)、小林提樹(島田療育園長)、小池文英(整肢療護園長)、秋山ちえ子(評論家)、三木安正(東大教授)、井深大(ソニー社長)など総勢17名であった(肩書きは当時のものである)。1回コロニー懇談会における各委員の意見や委員と厚生省との質疑応答の概要が掲載されている(「手をつなぐ親たち」1965, no.116: 19-21)。コロニー懇談会の事務局となった厚生省では、次のような理由から、欧米のコロニーを単に模倣するのではなく、我が国独自の考え方でコロニーの構想をまとめる必要があると考えていた(「国立コロニーのぞみの園十年誌」1981: 4)。「・・・厚生省としてはいわゆるコロニーについて、どのような構想をもつべきか、欧米先進国の状況からみて、わが国でとるべきコロニーについて新しい考えが必要であろうと考えていた。その理由の主なものは次のようなものである。1は、わが国においては、社会復帰の困難な重症心身障害児や、重度の精神薄弱者について親亡き後の面倒をみるという終生保護を考慮している施設は、現在の施設体系の中では存在していない、親の方々も主としてこのような施設を希望していること。2は、このような施設を単独に設置した場合、既存の重症心身障害児施設が職員の過重な労働のため、職員の募集に困難を極めていること。3は、欧米各国ではコロニーという場合、過去において、精神障害者・精神薄弱者を、数千という大規模施設に収容して隔離していたことの、人間的取り扱いでなかったという反省が起こり、昭和30年前後から社会復帰と地域ケアという方策をとり、大規模施設の小規模化を図りつつあった。特にアメリカにおいては、故ケネディ大統領が『精神病並びに健康に関する合同委員会』の勧告答申を全面的に尊重して、昭和382月アメリカ国会に発表された『精神病および精神薄弱に関する教書』は世界各国において、大きな影響を与えつつあった。このような欧米各国の状況から今まで日本にはなかったコロニーをどのように位置付けるか。ということなどであった。」また、昭和39年から41年までの間、厚生省児童家庭局長の職に就き、国立コロニー建設の検討の事務的な責任者であった竹下精紀は、その著書の中で、コロニー懇談会の構想がまとまるまでを次のように記述している(「私の歩いた道-厚生の仕事60年」2003: 253)。「・・・世界の動向というのは大きな施設をつくらないで小さくしていこう、社会復帰させていこうという傾向にあるわけなんですが、日本の方はまだそこまでいっていませんので、その辺をどういうふうに調整していったらいいのか、私共の場合、一番困った点でございます。そういう面で、当時は、政治或いはマスコミ、いろんな方面から、コロニーつくるべしという強い世論となりました。そこでいわゆるコロニー懇談会を設け、専門の学者、施設、親の会などの関係者で検討してもらうことになりました。しかし、従来のコロニーではいけない、欧米の新しい事情を踏まえ、私共が考えましたのが、精神薄弱者も入るし、肢体不自由者も入るし、いろんな障害を持った人が軽い人も、重い人もいっしょに入ってもらう。そこで一つの村づくりをやっていこうという気持ちであったわけであります。専門家の方は、それは非常に難しいんじゃないかというご意見もあったようでありますけれども、そういうことで一応懇談会の構想がまとまったわけであります。」建設予定地決定の発表に際して、当時の鈴木厚生大臣の談話は次のようなものであった(「わが国精神薄弱施設体系の形成過程」1982: 163)。「コロニーの考え方にはいろいろあるが、この施設では無目的にただ収容しておく、というのではなく、収容者の残存能力を発見、助長し、機能訓練、職業指導なども積極的にやり、社会復帰の希望を持たせ、生きがいのある生活を送らせるようにしたい。その点、高崎は、手工業が盛んで職業指導にも便利だし、住民ともしっくりととけ合えると思う。」上記のように特別の法律(心身障害者福祉協会法)に基づき設置された特別の福祉施設とされたため、例えば「精神薄弱者福祉法」の施設入所の措置に関する規定(昭和46年当時、第16条第2項)では、「・・・社会福祉法人の設置する精神薄弱者援護施設若しくは心身障害者福祉協会法第17条第1項第1号の規定により心身障害者福祉協会の設置する福祉施設・・・」と、「精神薄弱者援護施設」とは制度上異なる福祉施設として書き分けられていた。本項の記述は「国立コロニーのぞみの園年報」の第1号、「国立コロニーのぞみの園十年誌」による(「国立のぞみの園年報」1974, 1: 4-85; 「国立コロニーのぞみの園十年誌」1981: 57-58 )。「一人ももれなく守る」という理念を真に実現するためには、コロニー建設が不可欠であるという期待は、例えば、「両親の集い」第125号の「社会福祉建設の第一歩 ―コロニーづくりに思う― 」の記事中、「既存の施設のいずれにも収容されることができずに取り残されているような障害児(者)を忘れずに取り上げるようなものであってほしい」、「一口に重症児(者)といっても、その中に種々の症状の人々があります。ベッドに寝たきりのきわめて虚弱なものから、体の自由はきくけれども、行動が常軌を逸するため、瞬時も目を離せぬものなど、単独の施設の枠の中では取扱い困難なものも生ずるかもしれません。このような者たちを受入れて、それぞれ適切な療育の方式を研究し見出してゆくのも総合的なコロニーの重要な使命の一つ」といった記述からも推測される(「両親の集い」1966, no.125: 2-4)。昭和5051日の心身障害児者施設現況報告によると、重症心身障害児施設と国立療養所委託病床の定員は合計11,359床、現員は8,909人で、入所率は78.4%であった。また、昭和49年度の全国重症心身障害児者施設実態調査(公法人立全36施設対象)によると、4941日現在で18歳以上の入所者は全体の30%(昭和46年度調査では4641日現在14%)、6歳未満の入所児は5.6%9.4%)であり、体重別では、30㎏以上の入所児(者)は全体の40%(同23%)であった。(なお、昭和46年度調査の施設数は、年齢別は23施設、体重別は22施設であった。)3年間で入所児の年長化、体重の増加傾向が顕著に見られる。昭和40年代にコロニー建設が一種のブームのようになった理由について、登丸福寿は次の2点をあげている(「精神薄弱者問題白書」1969: 18)。第一に、障害の重度化や多様性、重複性などのため施設や機能の分化が必要であるが、施設が分化すると対象者の相互移行ができなくなったり、横の連絡が困難になったりするので、これらの総合化が必要になってくる。総合施設としてのコロニーはそういう必然性によって生まれてきたのである。第二に、「精神薄弱施設も企業の一つであるから、近代化の要請を避けることはできない。それには相当の規模を持つことが必要であることから、いくつかの施設を総合して規模を大きくして、近代化・合理化の要請に答えることにならざるを得ない。設備の改善、専門職員の配置などのためには総合的な適正規模を持つことが必須である。地方コロニーの中でも内容が多彩で規模が大きいのは、愛知県が明治100年記念事業として建設した「愛知県心身障害者コロニー」である。開設時の施設別の入所定員は、「精神薄弱児施設」200、「精神薄弱者更生施設」150、「精神薄弱者授産施設」100人、重症心身障害児施設200であった。このほか、心身障害児の専門病院(200床)、「精神薄弱者」を対象とする職業訓練校、養護学校、本格的な研究組織を有する発達障害研究所などが設置された(「愛知県心身障害者コロニー10年のあゆみ」1978このような構成施設等の内容を見ると、「国立コロニー」より「愛知県心身障害者コロニー」の方がコロニー懇談会意見書において構想されていた「心身障害者の村(コロニー)」に近いものであったということもできる。昭和467月時点の厚生省児童家庭局障害福祉課調べによれば、コロニー(総合福祉施設)の構成施設の一つとして重症心身障害児施設を予定していたのは、愛知県、茨城県、埼玉県、神奈川県であり、肢体不自由児施設を予定していたのは、東京都(府中療育センター)と神奈川県であった。「愛護」の「特集 コロニーと地域社会」の中で、各地方コロニーが自らの施設の目的機能を紹介しているが、これらに共通するのは、いずれも複数施設の有機的な連携により総合施設、中核施設の役割を担うことであった(「愛護」1972, no.178: 4-37)。昭和49年度の施設整備費予算のうち、「精神薄弱関係施設分」の内訳をみると、「精神薄弱児施設分」215百万円、「精神薄弱児通園施設分」192百万円、「精神薄弱者援護施設分」852百万円、「精神薄弱者通勤寮分」118百万円、「精神薄弱者総合援護施設分」608百万円と、「精神薄弱者総合援護施設」が精神薄弱関係施設全体の約30%を占めていた。このような実態について、当時の民間施設関係者の中には、限られた予算を目玉商品である大規模施設を優先して配分しているのではないかと批判する者もいた(「心身障害者のためのコロニー論」1975第4章 コロニー批判とコロニー政策の転換35言及したように、国立コロニー、地方コロニーともに、従来の障害種別による縦割りの施設では期待できなかったような独自の政策目的と施設機能担っていた、あるいは、企図されていたといえる。しかしながら、大規模施設であるが故に街から離れたアクセスの悪い場所に立地、あるいは、地域社会からの遊離という問題のほか、そのような施設での終生保護による社会参加の機会喪失家庭とはおよそ異なる没個性の団体生活、多くの職種にわたる多数の職員間の連携協力の困難性などの少なからぬ問題を内包していた。国立コロニーおいては、開設当時から地域社会からの隔離という問題は意識されており、運営の目標の一つとして、「コロニーを一般社会から隔離されたものとしないために、また、入所者の一人一人が地域社会の一市民として社会生活に参加するためにも、近接する社会と密接な連絡を保ち、ボランティア協力を得て、地域との交流を深めるよう積極的な努力が必要であることを掲げていた(「国立コロニーのぞみの園年報」1974, 1: 131 コロニー批判早くも昭和40年代後半には、コロニーの管理運営の困難性を懸念し、また、入所者や家族の立場からコロニーでの入所生活の非日常性を指摘する声も出てきた。例えば、飯野美保子「施設のあり方~市民生活の一場面として~」というタイトルにて、「愛護」の中でコロニーの問題点を次のようにまとめている(「愛護」1974, no.199: 17-20「最近、コロニー型式の大規模な施設が設立され、規模の大きさ、建物・設備の立派さで注目を浴びている。しかし、施設が巨大化すると、そこに、いろいろな欠点が生ずることを見逃してはならない。施設は大きくなればなる程、人間の生活の場としての味がなくなる傾向がある。職員対策、あるいは職員と対象者の人間的な接触は希薄になるし、広い地域から入所者が集まるため、親、兄弟は、なかなか面会に行けなくなる。隣人や親戚の人も、自分達の目前からいなくなった障害者のことは、時の経過とともに忘れてしまう。巨大な施設は、それが建てられている地元の人々にとっても、自分達の生活感情と結びついているという実感が湧かないのが現状である。」また、出口光平「コロニーの問題点とその打開策」というタイトルにて、コロニーの問題点として、次のよう指摘している(「愛護」1972, no.178: 26-コロニーは一つの社会づくりを目指して、いずれも在来の地域社会との関連に目を向けながら、広大な敷地を必要とすることから人里を離れた地域に、一つの特殊社会を造ろうとしていること。横の連携に弱い現下の行政組織のなかで、4ないし5に亘る法律のもと、数カ所にまたがる行政部門の行財政措置のなかでの運営にはかなりの問題点をはらんでいること運営処遇に当る職員の数多い職種と待遇が、それぞれの法のもとで違うことも、人事管理上、根の深い問題となる恐れがあること現存施設群の拡充強化は、地域社会のなかで行うことのできる対象者処遇として、むしろ緊急を要するにもかかわらず、限られた財政力のなかで、多額の公費を投入するコロニー造りは、現行制度の圧迫と受け取られる可能性のあること単立施設を総合的に運営する試みを行なわないで、新しい総合施設に夢を托したして計画がおし進められていること。欧州のコロニーとの比較という視点から、中村健二は我が国のコロニーの問題点を次のように指摘している。「ヨーロッパ諸国のように宗教を背景とした人間愛から自然発生した施設においてすら従業職員の問題で外見の華やかさと裏腹に内面はかなりの苦境に立っていたのである。しかし、それを支えていたのは地域住民の伝統あるボランティア活動であった。こういう伝統のないわが国において一挙に膨大なコロニーを作ってその運営が円滑に進行するのか、精薄福祉法の歴史とともに施設現場で時代の流れを見てきたものにとってはただ懸念することばかりであった。」(「両親の集い」1976, no.247障害当事者たち、特に脳性マヒの障害をもつ人たちを中心とする障害当事者達から、政府のコロニー構想は障害者を物理的、社会的、心理的に社会から分離し、隔離しようとするものだと激しい批判にさらされた(「社会福祉研究の新地平」2008: 276-2772 コロニー政策の転換これらの各方面からのコロニー批判は、コロニーのありようや役割に直ちに大きな変化をもたらさなかったが(ただし国立コロニーなどでは労働争議により施設の管理運営面で大きな混乱生じたが)、昭和50年代に入り、在宅福祉施策の整備充実の流れが出てくる中、また、ノーマライゼーション理念が紹介され、徐々に普及する中、コロニーより地域の中の小規模施設へという障害者福祉政策の転換が進められた。国立コロニーが開設してから10年後の「厚生白書」(昭和56年版p.87)では、「・・・いわゆるコロニーが全国に18ヵ所建設されている。・・・こうした大規模施設については、コロニー自体が一つの地域社会を構成するために広大な土地を必要とすること、地域的に辺ぴな遠隔地に設置されがちであり、どうしても地域社会から遊離してしまう傾向にあること、また、大規模であるために管理運営が難しいといった問題点が指摘されるようになった。そこで、最近では、一般地域社会の中の一つの構成要素として小さな施設を多数設置する方向へと転換されてきている。」と記述され、もはやコロニーは障害者政策において積極的な評価を受けないことを国自らが率直に認めるに至った。また、国際障害者年1981年)の翌年に策定された「障害者対策に関する長期計画」(昭和57323日、国際障害者年推進本部決定)の「施設利用サービス」の項においては、施策推進の考慮事項の一つとして「通所施設、生活施設等は、障害者の身近に小規模のものを分散的に整備する」ことが掲げられた。このように、国立コロニー、地方コロニーについては、その内包している問題点について種々指摘がなされる一方、開設後それぞれが担うべき機能を果たしてきたか、あるいは、どのような者を対象にどのような機能を果たしていくべきかが必ずしも検証されることなく、コロニー建設自体が障害者福祉政策上積極的に評価されなくなり、政策論議の表舞台から退くことを余儀なくされる時代へと移行したのであった。矢野隆夫・富永雅和は「心身障害者のためのコロニー論」にて、昭和40年代後半に出された様々なコロニー批判の概要を次の4点に整理している(「心身障害者のためのコロニー論」1975: 50-70)。大規模施設:経費削減を図るため既存施設を僻地に寄せ集めて規模を大きくした施設合理化にすぎない。生活共同体:障害者及び職員とその家族が地域社会から隔離されて生活する特殊な共同体である。総合施設:福祉政策の再編合理化政策としてのコロニーは実態のない総合施設であり、既存施設における矛盾の一層拡大再生産するものである。分断処遇・分類収容:障害別、程度別に分断処遇を行うとともに、障害別、能力別に分類収容し、その能力に応じて生産に従事させている。あとがき国立コロニー開設に至る道のりは、重症心身障害児(者)の対策、中でも「専門的な療育を行う施設」を実現するために、重い障害のあるお子さんをもつ親たちとその支援者が全身全霊をかけて推進した訴えと運動の歴史でもあった。中軽度の障害のある人たちを優先する障害福祉対策の谷間に落ちていた重い障害のある人たちのために新たな施設が制度化されても、入所基準が設定され、それを満たさない場合は谷間から這い上がれない、場合によっては入所している施設から排除されかねないということを一度ならず経験し、「全国守る会」はコロニー建設こそ「一人ももれなく守る」という会のモットーを実現するための最後の砦という大きな期待感を抱いてその実現を熱望するに至った。その様な思いは昭和4012月のコロニー懇談会意見書に凝縮され、障害の重い人も軽い人も包摂する「一つの生活共同体」としての「総合施設」という方向で意見が集約された。しかしながら、5年の歳月が経過する中で、国立コロニーが当時施設整備のニーズが特に高かった重い知的障害のある人たち及び知的障害と身体障害の重複している人たちを対象とし、重症心身障害児(者)は対象外として開設されたとについて「一人ももれなく守る」ことを目指した人たち満足できない結果として受け止めたのは当然であった。それはともかく、昭和40年代後半に国や都道府県によるコロニー建設が一巡し、国立コロニーと大半の地方コロニーは重い知的障害のある人たちを中心に受入をしたが、その後、知的障害のある人たちを巡る福祉施策は次の様に展開してった。昭和40年代後半以降、全国各地で知的障害者援護施設の整備が着々と進められた。知的障害者援護施設の中で最もニーズの高かった入所更生施設は、昭和40年代末から、定員総数で毎年2,000から3,000名を増加するという規模で施設整備が推進されたが、入所者の障害の重度・重複化、入所期間の長期化とこれに伴う入所者の高齢化の傾向が強まり、また、退所に至る者は限られたことから在籍率は95%を超える状況が続き、平成の時代に入っても施設整備のニーズが弱まることはなかった。通所施設は昭和50年代中ごろから、在宅福祉対策の充実強化の流れに沿って、授産施設を中心に整備が促進された。また、新しい類型の施設として、昭和461971年に「精神薄弱者通勤寮」が、昭和541979年に「精神薄弱者福祉ホーム」がそれぞれ創設された。なお、昭和601985年には知的障害者授産施設の一類型として「精神薄弱者福祉工場」が創設された。一方、在宅福祉対策については、昭和491974年の中央児童福祉審議会答申において、「可能な限り在宅処遇が望ましい」ので、在宅福祉対策を「今後の対策の柱として、工夫をこらし、より一層拡充を図って行かねばならない」という方向性が示され、この答申を契機に在宅の心身障害児(者)を対象とした事業が順次制度化された。昭和511976年に「在宅心身障害児(者)緊急保護事業」、翌521977年に「精神薄弱者通所援護事業」、531978年に「在宅重度精神薄弱者訪問診査事業」、551980年に「心身障害児(者)施設地域療育事業」などが創設され、また、家庭奉仕員派遣事業について低所得世帯以外も派遣対象とするなど利用できるサービスのメニューは徐々に増えていった。しかしながら、地域での生活を希望する知的障害のある人たちの実際のニーズに照らせば、メニュー的にも、量的にも圧倒的に不足し、家庭における介護が限界に達した場合に施設入所を選択せざるを得ないという状況が続いた。平成の時代(1989年~)に入ると、戦後構築された社会福祉制度の根幹にかかわるような改革、すなわち、平成21990年の社会福祉関係八法の改正、平成91997年の介護保険法の制定、平成122000年)年の社会福祉基礎構造改革のための関連法律の改正が行われた。このような社会福祉分野の改革が相次いで行われた間に、知的障害のある人たち福祉施策については、平成元年1989にグループホーム事業が制度化されたのを始めとして、社会福祉変革の流れの中で入所施設から地域生活への移行に必要な基盤整備が徐々に進展した。すなわち、ノーマライゼーション理念の普及・定着に伴い、平成5199341日付けで厚生省児童家庭局長通知「精神薄弱者援護施設等入所者の地域生活への移行の促進について」が発出されるなど、地域移行が政策課題として顕在化した。地域生活を支援するため、新しい在宅福祉サービスの創設、既存のサービスの利用対象者の拡大や利用要件の緩和などが相次いで行われ、地域で生活する障害者が利用できる福祉サービスのメニューは増加した。また、障害者プランのように数値目標を盛り込んだ計画が策定され、国、地方をあげて目標値達成に取り組んだことにより、福祉サービスの整備は、地域におけるニーズに照らして不足状態が継続していたものの、また、スピード感に欠けていたものの、着実に進んだ。地域で生活する障害のある人たちと実際の保健福祉サービスを結びつけるために地域における相談支援体制の整備が進められ、また、障害のある人たちのニーズを的確に把握し、保健福祉サービスはもとより地域における多様な社会資源を組み合わせて利用できるようにするケアマネジメント手法普及していったさらに、施設入所者が自らの意思で地域生活を選択できるように、措置制度から利用契約制度への転換が行われ、福祉サービスの利用者の自己決定を支援する仕組みや利用者保護の仕組みが導入されるとともに、市町村に施設と在宅の施策を一元的に推進する権限が付与され、都道府県が専門性、広域性等の観点から市町村を支援する体制の構築を目指すこととなったこのように障害者福祉制度の改革が行われ、障害者福祉施策も多様化していく中で、かつてコロニーに入所した人たちは、入所している限り、安全・安心で充足された日々を過ごしている者とみなされ、これらの人たちの真のニーズは何か、それを満たすためにどのような支援が必要かをあまり顧みられることもなく、コロニーの中での生活に徐々に適応していった。やがて多くの入所者はコロニーを終の棲家とし、平穏な日々を過ごすこととなったが、入所後の20年、30年という歳月の流れは家族との絆や生まれ育った地域とのつながりを自ずと希薄化していった。そして、上述のように施設入所者の地域移行の課題が顕在化し、平成15200310月に設立されたのぞみの園の第1期中期目標の中で施設入所者の地域移行に関する目標掲げられ(それ以前に宮城県の船形コロニーや長野県の西駒郷では先駆的に地域移行に取り組んでいたが)、平成182006年から施行された障害者自立支援法の障害福祉計画の中で、基本的な方針の一つとして施設入所者の地域移行の目標値設定され、全国的に地域移行が推進されることとなった長期にわたりコロニーで生活していた人たちの少なからずはそれを待ち望んでいたであろうし、逆に家族の多くは地域移行への方針転換に戸惑い、不安に駆られたと推測されるが、地域移行という大きな障害者福祉政策の流れの中に身を置くこととなった。のぞみの園においても、最重要課題として地域移行に取り組み、この10年間に地域生活を目指して退所した利用者は150に達した。最近の障害者基本法の改正、障害者自立支援法から障害者総合支援法への改正により、障害者福祉施策は地域生活支援にいっそう重点をおいて推進されていくことは必至である。引き続き地域移行に取り組み、地域で生活する重い障害のある人たちの支援に関する事業に一層力を注いでいく必要があることはいうまでもないが、かつてコロニー建設のために心血を注いだ人たちの思い、そして、国立コロニーでの生活を選択せざるを得なかった本人とその家族の心情に思いを馳せれば、本人と家族がともに喜びを分かち合える新たな生活を実現するために、一人ひとり丁寧に手順を踏んで地域移行を進め、地域生活を継続できるように関係者の連携協力の下に支援体制を構築していくことが何より大切であることを改めて肝に銘じる必要がある。文献本稿の引用・参考文献は以下の通りである。なお多数引用した4の雑誌については、現在は名称や発行者が異なる資料もあることから、その変遷について記載し全国重症心身障害児(者)を守る会: 両親の集い(1956- .全日本精神薄弱者育成会: 手をつなぐ親たち(1956-1993.「全日本精神薄弱者育成会」(現在の全日本手をつなぐ育成会)の機関誌で、19934月号から現在の「手をつなぐ」となっている。全日本特殊教育研究連盟・日本精神薄弱者愛護協会・全日本精神薄弱者育成会: 精神薄弱者問題白書(1961-1974.「全日本特殊教育研究連盟」「日本精神薄弱者愛護協会」及び「全日本精神薄弱者育成会」共編による年報であったが、1975年版から「全日本精神薄弱者福祉連盟編」となり、現在は「発達障害白書」(全日本発達障害者福祉連盟編)になっている。日本精神薄弱者愛護協会: 愛護1937-2000.「日本精神薄弱者愛護協会」(現在の日本知的障害者福祉協会)の機関誌で、20004月号から「AIGO」、20024月から現在の「support」となっている。愛知県心身障害者コロニー: あしたとべたらー 愛知県心身障害者コロニー10年のあゆみー(1978.糸賀一雄: この子らを世の光に. 柏樹社(1965.糸賀一雄: 施設擁護論. ミネルヴァ書房(1967.糸賀一雄著作集刊行会: 糸賀一雄著作集Ⅰ. 日本放送出版協会1982.糸賀一雄著作集刊行会: 糸賀一雄著作集Ⅱ. 日本放送出版協会1982.糸賀一雄著作集刊行会: 糸賀一雄著作集. 日本放送出版協会1983.菅 修: 治療教育学. 日本精神薄弱者愛護協会(1974.菅修追想録刊行会: 菅修追想録(1981.北浦雅子: 悲しみと愛と救いと. 佼正出版社(1966. 北場: 戦後「措置制度」の成立と変容. 法律文化社(2005.京極高宣: この子らを世の光に―糸賀一雄の思想と生涯. 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